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「ふつう」とはなんだろう?~ある難聴少年の作文から

こえるお母さんがきこえない子どもを産んだ時、多くのお母さん方は嘆き悲しまれたに違いありません。それは、そのお母さんがきこえることが「ふつう」のことであり、聴こえない子という「ふつうではない」子どもを産んだことへの悔い、落胆、悲しみの気持ちなのだろうと思います。

しかし、「ふつう」という価値観は人によってその規準とするところは異なります。その証拠にきこえないお母さん方の多くは、きこえない子を産んだ時、喜ぶ人が多いということからそう言えると思います。きこえない人にとっては、「きこえないこと」は「ふつう」のことなのです。おそらく、生まれついたときから「きこえない子・人」として長い年月を生きてきて、「きこえないこと」は特段「異常」なことでもマイナスとみなすことでもなく、「ふつう」のことと思えるようになったということなのでしょう。

 そう考えると、「きこえないこと」は「ふつうじゃない」から少しでも「ふつう」に近づくように、「きこえる」ようにしようという判断が唯一正しいとは限らないということになります。例えば人工内耳をしようかどうかさんざん悩み迷った挙句、このままでいいと思って育てた子が大きくなって、「ぼくは産まれたときからのこのぼくが好き」と思う子に育つ、ということは実際には多いのです。きこえない自分はいやだと思っている聴覚障害者・聾者は、成長の過程で一度はそう思う時はあっても、最終的に二十歳の成人式を迎える頃には自己肯定感をもった立派な聴覚障害青年に育ちます。ですから「きこえない」ままに育ってもそれはそれで間違った選択とは言えないと思うのです。なにがなんでも新スクで早期発見して1歳までに人工内耳をやって・・という耳鼻科のお医者さんには、もうちょっときこえないままに成人した人たちがどう育っているのかをみてほしいなと思います。

 

前置きが長くなりましたが、以下の作文は、普通小学校難聴学級に通う6年生の難聴児の作文です。区の作文のコンクールで優秀賞をもらったそうです。彼は、自分が「普通」

補聴器.jpgのサムネール画像とは違う「聴覚障害をもった子ども」として生きてきました。その過程で友達ともいろいろなことがあったかもしれません。しかし前向きに、自分の障害について自分の中で一生懸命考えてきました。そして、人はみな一人一人違っていいんだということ、「普通」という概念はそれぞれ人によって違い、一人一人みな違うからこそ、それぞれにとっての「普通」をお互いに認め尊重することが大事なんだという考えに辿り着きます。このような障害認識に一人で思考し辿り着いたわけです。そして、彼は、最後にこう言い切ります。

「僕には僕の、普通があります。そして、あなたには、あなたの普通がある。一人一人を大切にするとは、互いを尊重し合うとは、その普通を認め合うことだと思います。誰もが互いを認め合える世の中を、これから僕達が築いていかなければならないのです。」

う~ん、すごいです。本当に感動しました。この少年のことばを、耳鼻科の先生方はじめ色々な方々にもぜひ知ってもらいたいと思い、以下に、作文を原文のまま引用します。なお、この作文が、大人の手が一切入っていないことは読んでみればすぐにわかります。子どもらしい表現がそのまま残されているからです。しかし、こうした表現を含めてこれがこの少年そのものであり、それをそのまままるごと尊重してコンクールに応募したということが、この作文のもう一つの大切な意味なのだと思います。

 

「普通とは何か」

 松本直汰郎

普通とは、何なのでしょう。

異常が無いこと。

良くも悪くもないこと。

平凡であること。

普通とは、とても難しい言葉だと思います。

なぜ、僕がこんなに深く考える必要があるのか。それは僕が「耳が聞こえにくい」障害者であり、自分を普通でないと考えていたからです。僕は、自分が他人と違うということを幼いころから薄々分かっていました。しかしながら、最近は、補聴器をつける自分がどこか気に入らないのです。それはきっと、見た目の問題だと思います。補聴器の性能はとても優秀で、性能自体には何の文句もありません。しかし、その形はというと、耳の形に合わせてくるんとカーブした、何とも言えない形です。初めて補聴器を見た人が「なんだろう?」と首をかしげたり、耳の形をちらちらと見たりするのも納得できます。僕は、補聴器をつけることについて、この頃から不安を感じるようになりました。しかし、「見た目が悪い」という程度の理由で外してしまうわけにはいきません。補聴器は、僕にとって必要不可欠なものだからです。僕は、自分が「普通ではない」ことを実感するとともに、そんな自分を情けなく思うようになりました。

 そんな時、ふと頭に浮かんだのは、

「みんなちがってみんないい。」

金子みすゞさんの詩の言葉です。「私と小鳥と鈴と」の詩は、それぞれの個性を認め合うすばらしさがうたわれています。これです。その時の僕は、この詩の言葉がスッと心に入ってくるように感じました。自分を他人と比較してしまう自分にも、大きな原因があると気付いたのです。「人と人は、それぞれに良さがあって、欠点も必ずある。それぞれの個性を大切にするべきだ。」こんな簡単な、こんな当たり前のことさえも、僕は忘れていたのです。

 金子みすゞさんの言葉で、僕は大切なことを思い出し、その考えを改めることができました。そして、僕がこだわっていた「普通」のおそろしさについて考えるようになりました。

 「あの人は普通じゃない」

 「普通ならもっとできるはず」

 「きみって普通だね」

この三つの言葉を、あなたならどう受け止めますか。もちろん、人によって感じ方は異なると思いますが、これらの言葉をうれしいと受け止める人はいないでしょう。これらの言葉は全て、人を傷つける可能性があると僕は思うのです。言葉というものはおそろしいものです。人を優しく包み込むこともあれば、絶望させ、恐怖のどん底に突き落とすこともあります。

大げさかもしれませんが、さりげなく言ったその一言で、相手は計り知れないダメージを受けるかもしれないのです。

 こんな事例を耳ににしたこともあります。

「あの子は普通じゃなかったから、興味本位でちょっといじめてみた。」いじめはどれも悪ですが、人の個性を踏みにじるようないじめ、人格を否定するようないじめは、絶対にしてはいけません。こんないじめが早くなくなることを願うばかりです。

 普通という言葉を辞書で引くと、「ほかと比べて、特に変わっていないこと」と記してあります。しかし、今の僕が「普通」について解釈するとしたら、こうでしょう。

「普通とは、人によって基準が異なるため、どれが正当であると言い切ることはできない。人によって普通が異なるということは、すなわち個性があるこということ。」

 僕がこだわっていた普通について、一つの結論が出たような気がします。僕は自分と、僕にとっての普通を大切に、これからも胸をはって生きていきたいです。

 補聴器は、眼鏡やコートと同じなのです。寒い時にコートを着るように、聞こえにくいから補聴器を使う。見えにくい時に眼鏡をかけるように、聞き取りにくいから、補聴器をつける。補聴器をつけることは、決しておかしいことではないのだと、やっと分かりました。

 僕には僕の、普通があります。そして、あなたには、あなたの普通がある。一人一人を大切にするとは、互いを尊重し合うとは、その普通を認め合うことだと思います。誰もが互いを認め合える世の中を、これから僕達が築いていかなければならないのです。

┃難聴児支援教材研究会
 代表 木島照夫

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