全国の難聴児のための早期支援、聴覚障害教育の情報提供、教材などの紹介を発信します。

軽・中度難聴


 聴力が軽度・中等度の難聴で「聞こえて、話せる」人は、自分が「聞こえにくい人」ということを自覚することがかえって難しく、ちょっとしたコミュニケーションのずれから周りとトラブルになったり、自分だけ知らなくて恥ずかしい思いをすることもしばしばです。

 しかしその原因がどこにあるのか自覚できないために、だんだんと周囲と関わることから自分を遠ざけ、自分自身を嫌悪し、聞こえていないことを隠すようになっていくことも少なくありません。

 この講演のMさんもそうした隠し続けてきた自分自身の心、どうして自分はこんなにまで隠さなければならなかったのか。どうしてこんなにまでして、人を拒絶しなければならなかったのか。どうして、こんなにも誤魔化さずにはできなかったのか、そんな心に正面から向き合い、そして、笑顔を取り戻していったのか、その貴重な体験を語ってくれています。


               (全国早期支援研究協議会夏季大会記念講演記録より)



     難聴者として生きる~「隠し続けた心」の開放~ M.T


~はじめに~


 私は、中等度難聴です。中等度難聴とは、身体障害者手帳に非該当、手帳を持っておりません。そんな私がこんな所でお話しして良いのだろうかと言うような気持ちもあります。今まで聾者や重度の難聴者の方とたくさん関わってきて、そういった中で入った曖昧な部分の立場というものがあって、自分の体験や経験をこんなに人に話すものなのかなと、そういう気持ちが正直すごく強いです。それが近年早期発見と言うことで、一人一人の幼い子ども達が、たくさん聴覚障害の子ども達が発見されて、そして聴力レベルも様々な中で、自分自身のようなどちらかというとあまり明るいとは言えなかった、そういう子ども達が少しでも減ってくれると良いなと。ただそれが、自分の性格だったのか、それとも少し聞こえにくいことに起因しているのか、というのは当然私にも分かりません。その辺を皆さんに判断しながら聞いていただくほかはないのかなと思っています。よろしくお願いします。


 私が、難聴協会に入会したのは3年前です。難聴者の世界の中では、新参者です。手帳も持っていない。それより前までは、県の手話サークル連絡協議会というものがありまして、そちらの方でしばらく活動して、会長とか勤めていました。自分自身はそれまでは健聴者と言う立場から主に聾者の方々と関わる、いろんな事でバックアップしていくということがありました。自分自身も手話通訳の勉強をしたことがありまして、通訳者の試験を受けようかなと思ったこともあったのですが、聞き取りの試験がだめで、読み取り専門で地元では通訳を裏の方でやったりしています。そういった自分自身が、なぜ突然聴覚障害者の活動の世界では難聴協会はどちらかというとマイナーな方なんですね。ご存じのように、全日本聾唖連盟というのは非常に大きくて古くて力もあって、そういった世界から難聴者の世界に飛び込んでいって、その中で活動を始めていくときにも、やはり自分の中でもいろんな葛藤、アイデンティティの変化というものがありました。少し聞こえにくいというレベルなんだ、という気持ちでその世界で関わってきて、そういう少し聞こえにくいだけの自分に何ができるのかな、そういう立場の自分が発言するべきなのかなと、そういった気持ちを持ちながら活動してきましたけれども、今自分の中でやはり聴覚、聴力のレベルには、重い人には重い人なりの苦労、困難さというものがあり、軽くても軽いなりの苦労、困難さがあるんじゃないのかな、そういったことを少しでも自分が周りの方にお話しすることで、何かのお役に立てたらなという気持ちにようやく変わってきつつあります。


 (スライド)これは、私が16歳の時の聴力検査の結果なのですが、だいたいお分かりの方だと、結構悪いんじゃないのと思ったりします。2000ヘルツのあたりが0デシベルなので、音としてはほとんど入っていきます。ところが、500ヘルツのあたりが30デシベル、そして4000ヘルツのあたりが60デシベルというふうに、非常に珍しい山型のカーブになります。このころ大学病院に通っていましたが、医者から補聴器を進められることもなく、「あなたは大丈夫だ、頑張りなさい」と、むしろ今残っている2000ヘルツのこの部分を大切にした方がいいということで、特になんの支援を受けることもなく聴覚障害者の世界、あるいは手話、そういった世界に全く触れることなく、30歳まで生きてきました。初めて大学病院に行ったのが確か4歳の頃だったと思うのですが、自分がなんで大きな病院に行ってこんな検査をしなければならないのか、当然分からなかった。自分自身が聞こえない、聞こえにくいということの意識もすごく少なかったと思います。


 (スライド)次が、ちょっと最近の、2年前の検査結果なのですが、2000ヘルツの良かった部分がちょっと落ちてきて、15デシベルぐらい。それから、500ヘルツのあたりが50デシベルくらい、4000ヘルツのあたりが7080デシベル。左の方はこういう感じでスケールアウトしています。こういった中で、加齢によるものかどうかは分かりませんが、職場でもだいぶ苦労しています。特に地域の方言ではわりあい口の動きがはっきりしなくて、曖昧なもごもごとした喋り方をする人が多い。また、2000ヘルツというと、比較的女性の声に相当しますね。ですので、女性の声は聞きやすくて、女性と話すのは大好きなんです。女性の声が大好きなんです。ところが男性、特に年輩の職場でも重要なポストの人たちというのは、(スライド)だいたいこの辺だと思うのですが、非常に聞こえない。だから、重要な上司の声が聞こえなくて、若い女性の声が聞こえるということで、変なやつだなと思われていたようです。私自身も補聴器を使うようになったのが、このころなんですね。この聴力検査結果というのは、今使っているデジタル補聴器を買うためにとってきたのです。それまでは、アナログが主流でしたので、2回使ったのですが、このように急カーブを描く山だと、ほとんど使い物にならなかった。なので、なんの支援もなく、なんの知識もなく、つい最近まで過ごしてきたのが私の道のりです。


 

1 幼少時の記憶  ~両親からの影響と私の心~


 (スライド)これ、私なんですが、生まれた時ってみんなかわいいですよね。ありがとうございます。こういう私でもこういうかわいい時代があって、両親に愛された時代があったなと、アルバムを見ながら思ったのですが。でも、両親に愛されていた時代というのは、本当に記憶の中ではほんの一瞬なんですよね。むしろ、その後両親との間にいろんな諍い、あるいは自分が聞こえないということを理解してもらえていないんじゃないか、あるいは分かっていた上で社会で生きていけるようにといろいろ配慮してくれていたのかもしれません。でもそれが自分にとっては、ストレスで仕方ない、両親が自分のことを愛してくれているとは思えない、そういう人生の出発というものが自分の中で、その後の人生を綴っていく上ですごく大きな影を・・・、いるのかな・・・。今思い出してみると、幼稚園の頃だったか、小学校1年の頃だったか、東京まで夜行列車に乗って夏休みに行きまして、鍼をうったんです。それが痛くてね。小さい子どもがなんで自分の頭に鍼を全面にうたれるのかという理由が分からないんです。鍼をうっただけでなく、鍼の先端にはお灸を、ヨモギをくっつけてあちこちで煙が上がっている、頭に鍼をうたれて煙がもわもわとなって、30分か1時間くらいじっとしていた記憶があるのですが、なんでせっかく楽しい都会に出てきたのに、毎日毎日こんなふうに通わなければ行けないのかなと思いながら、今思うと両親としては本当に効果があると思ったのか、何かにすがりたいという気持ちだったのかということを、今なら分かる気がします。当然その頃は、なんでこんなことをするんだろう、でもこの後アイスクリーム買ってくれるし、おいしいもの食べに連れて行ってもらえるから、ちょっとの間頑張って、くらいにしか思ってなかったんですね。あとは、音楽教室に通わされたのですが、自分よりちょっと年下の女の子ばかりが同級生で、みんなで一緒に歌ったりオルガン弾いたりするんですが、なんでこんな所に年上の男の僕が習いに来てるんだ、という気持ちも出てきて、両親としては少しでもそうやって音を耳に入れていく環境を、音や音楽にいかに関心であるとか、あるいは聞き取りに少しでも役立てたら、たぶんそういう気持ちだったと思います。でも、そういう両親のしてくれたことというのが、全部が全部自分にとっては余計なことでした。


 大学病院に通ったわけですが、大学病院から帰ってくる時に、両親が「分からなかったら何回でもいいから聞くんだよ」というふうに繰り返し繰り返し何度も言った。そういえばなんか、ちょっと喋ってることで聞こえないことがあるなと思って、ときどき聞くんですね。「あれ?なに?なんて言ったの?もう一回、もう一回」と聞くんです。最初は答えてくれても、それが毎日毎日、一日の中で10回も20回もになってくると、両親はやってくれなくなりますね。それは、健聴者の子どもであっても、何か疑問が出た時に、「これって何?これって何?」としつこく聞くと嫌がられるので、同じ事だと思うのですが、私の場合はそれに輪をかけて「今なんて言ったの?」というふうに、両親が何回も聞きなさいと言ったわけですから、その通りに私は聞いたんです。そうすると両親は、当然「あとでね」「子どもには関係のない話だから」「もういいから、もういいから」とついつい言ってしまう。でもそれが、本当に今でも自分の心に残っている、実は非常に大きなとげのように長い間長い間ささっている。そしてそれが、両親だけでなくてやがて周りの友だち、あるいは学校の先生、そして大きくなっていくと職場、といったさまざまな場所で、1回2回くらいは聞いてもいいかなっと、それ以上聞いてもだめだったらあきらめちゃう。たぶん同じ難聴の子どもたちはみんな同じ経験をしているんじゃないかなと。だったらそんなこと言うなよ、と言いたくなるのですが、でも両親からするとそれ以外になにも他に方法がなかったのかなと、言いようがなかったのかなと、今だったら分かるんですよね。そして、私がちょうど幼稚園、小学校の頃でしたか、カラーテレビになった時代があったんです。我が家にカラーテレビが入ってきてすごく嬉しくて、その頃はウルトラマンとか仮面ライダーとかがはやった時代で、テレビの真ん前を占領してボリュームを上げて見ていたのですが、いつもいつも「テレビの音がうるさい、もっと静かにしなさい、もっと離れて見なさい」と言われて、どこのお宅でもそうだと思うのですが、とにかく何か耳のことにまつわると自分が四六時中ストレスを感じなきゃいけない、そんな気持ちがちょっとずつ積もり重なっていたんだなあと。だから、しつこく聞くと嫌われる、多くの難聴の方と話しますが、健聴者の集団に入っていけば後はくっついていくだけ、何も言わないでくっついていくのが難聴者、というくらいに似たような行動パターンで・・・。自分が我慢をすればまるくおさまるのかな、そうやって少しずつ消極的な受動的な受け身的な自分の性格が後天的に作られていったのではと思います。専門家じゃないのでわからないのですが。


それが、何のサポートも受けてこなかった私にとっては、聞こえる人間として、見せかけは聞こえる人間として生きるという、なんか他のことすべてに、熱い鉄を融かして鋳型に流し込んで型を作るような、そういう自分自身の中途半端な難聴者といいますか、そういった、聞こえる立場の、見せかけ聞こえる人間としての生き方・性格で、人生をただ作ってきたのかなあと思います。

 

2 学校での記憶 ~教師や友人からの影響と私の心~


 ここから、学校の時の話に入っていくのですが、教師、あるいは友人といったものが、自分の心にどんな影響を投げかけていたんだろうということをちょっと振り返ってみます。


私が(思い)浮かぶ所といえば、幼稚園とか小学校というのは、昔はみんな声が大きかったのですね。意味もなく、「わかりましたか?」「ハーイ!!!」というような感じで、とにかくわけもなく声が大きかった。そういう環境の中では、難聴のストレスもたぶん無かった。それが、なんかふっと気がつくと、『あれ?クラスのみんないないなあ』と言うことに気が付いて、探してみたら、あれ、今日は校舎の外にみんな出てるなあ、とか。すごく悔しかったのは、小学校の6年生の時のタイムカプセルです。卒業する時に、なにか自分の記念になるものを、みんなで集まって校庭に穴を掘って埋めて、「じゃあ、20年後、30年後、みんなで集まってこれを掘り出そうな!」ていう、タイムカプセル。そのタイムカプセルを埋めるということを、私は一切知らなかった。そんなに学校休んでいたわけでもないし、何で知らなかったのか自分でも全然わからないですが。ある日、みんな校庭に出て行くのでくっついていったら、校庭の片隅に穴が掘ってあって、みんなが、玩具だとかいろいろ持っているんですね。それで「どうしたの?」ってきいたら、「バーカ、おまえ、今日タイムカプセルの日じゃないか!おまえ、なんか持ってきたのか?」と言われて、何も準備してないけど...って思ったんです。たぶん、こんな楽しいこと、こんな大事なことって、友達同士の話題の中にもきっとあった筈なんですよね。先生が「何か持って来なさい」と言うだけじゃなくて、必ずそこかしこでそういう雑談があったはずなんです。でも、そういう情報も自分には届いていなかったんだということに、20年、30年たって気がつきました。その時には、なんで自分の知らない動きがこんなにいっぱいあるんだろう、というくらいにしか思っていませんでした。


ある程度大きくなってくると、委員会活動とかありますね。自分は小中高と、図書委員会だけはずっとまじめにやってまして、かならず副委員長です。なぜ委員長をやらないかというと、(委員長は)生徒会の総会なんかで壇上に上がってやりとりしなくてはならない。あそこに上がるとやっぱり質問が聞こえないので、ちょっと俺には無理だなあという気持だったんですね。思い出してみるとクラブ活動とかいろんな活動をやった時に、自分はいつも『副』ばっかりやってた。なにか無意識のうちに自分が矢面に立たなくてもよい場所を選んでいる。でもなにかやりたくて、何か動きをしたくて、手を上げるときには『副』ばっかりだったんだなあって、気がつきました。


そして、中学校に入ると、なぜかみんなの声が低くなってくるんですね。友達の声だけじゃなくて先生達の声も段々低くなってくる。その頃に、思春期ということもあってか、自分自身はだいぶ耳が悪いらしいということに気がついたんです。音声としては入ってくるんだけれども、肝心な部分、例えば語尾とかが過去形だったり否定形だったりすることで意味が変化してしまいますよね。また、数字だったり、人の名前だったり、大事な単語がぼやけてしまう。虫食いだらけの地図を眺めているような感じで授業が当然わからない。わからないだけだったら、くやしいから家に帰って勉強すればいいんですけど、どうしても目立ってしまうのが音楽、それから英語の授業なんです。音楽の授業では合唱、歌があります。先ほどの山なりの(聴力の)グラフを思い出していただけばわかるんですけど、自分で一定の音が取れない。ある特定の聞こえやすい音はたぶん取れてると思うんですけど、ちょっと低音だったり高音だったりすると音が取れない。なので、自分は音痴だと自覚してない音痴だったんです。私がいたクラスは、毎年、合唱コンクールの時異様に盛り上がって、学年優勝だったり全校優勝などするクラスだったんです。だから、歌が下手だった私に友人が放課後付き合ってくれて、歌の特訓をしてくれたんです。その歌の特訓を始めた頃は、自分では歌が下手だとは思っていなかった。ところが友人の歌に合わせて歌おうとすると妙にハモってしまう。妙にずれてしまう。何回やってもずれてしまう。そのうちに自分のプライドっていうんですか、雰囲気が凍って、その友達と殴り合いの喧嘩をしてしまいました。それが中学校1年生の時だったのですが、その友人とはそれから3年間、絶交状態で卒業してしまいました。


今でも職場でカラオケ行こうということになると、付き合うことは付き合うんですが、絶対歌わない。でも歌は好きなので、難聴協会に行くともうマイクを離さないくらい歌っちゃうんですね。


そして、英語の授業。英語の先生って言うのがとにかく声が低い先生で、それだけでも耐え切れない。ですから、私の嫌いな先生の順位っていうのは、だいたい声の低い順番なんです。あるとき発音で『tomorrow:明日』が発音できなくて...。この単語は今だに発音したくないです。みんなの前で1020回と言わせられたんです。それでいくら言っても合わないんで、ちょっと変化させたりするんです。「トメロウ」とか「トモロウ」とか...何回やってもわからない。クラスのみんなも笑ってしまうんですけど、心の中ではものすごい土砂降りの雨と稲光がしてた。一応顔では取り繕って笑いを浮かべているんですけど心の中はものすごい嵐でした。それから英語の勉強は本当に大嫌いになりました。そのうち授業のほとんどがわからなくなりました。とりわけ声がでかい先生が一人二人いたんですが、その先生以外の授業は段々わからなくなりました。前から2、3番目の席の時もあったんですが、音としては入ってきてもことばとして完全につかめない。そうなってくると、プライドだけは高くなっていって、『聞こえないんじゃない、聞いていなかったんだ』と言い訳をする。授業中は、よく右側から順番にあてるとか、先生が生徒を指名していきます。この並びだと何番目くらいに自分に来るなあとなると、眠りの態勢に入って、「M、M!」って呼ばれてから、「あ、すいません、寝てました!」という感じで授業のほとんどを寝た振りをしてすごしてました。ひねくれてますね。


小学校のころからかなり聞き漏らしというのはあったのでしょうけれども、自分自身ではそれほど認識はできなかった。だから回りに人がいないとか、何かを持ってこなければいけなかったとか、そういうことでもない限り気付くことは無かった。でも中学校くらいになってからは、記憶というものが辛いもの、苦しいものがある。そして、聞こえないことは恥ずかしいことであると思うようになりました。そのことは絶対に覚られてはならないことだと思うようになりました。何故だかわからないけど、そういうふうに思うようになったんです。そして、プライドを刺激されるということを、すごく極端に恐れるようになりました。自分の耳のことに触れたり、なにかそういう教育なりになってくると排除しました。学校の先生も声が低く、生徒を指名して解答させる先生というのは私にとっては......。そのうちに、誰も彼もが自分の耳のことを言ってるような気がしてきて、意味もなく睨みつけて、相手を威嚇して『おまえなんかに俺の気持がわかってたまるか。』いつもいつも、そんなことばっかり考えていました。そして段々、自分の顔から表情が消えていったんです。鏡を見るのもいやでしたね。この頃の写真を見てみたら、本当に顔の筋肉が無いような、のっぺりとした顔なんです。こんなのが目の前にいたら絶対友達になってはいないなと、我がことながら思ってしまいました。

 

3 社会に出て ~職場でのかかわりと私の心~


突然、10年くらい時をおいて、ちょうど就職をしたころというか、仕事が決まって初めてスーツを着た時の写真です。(スライド)この私でも一応仕事につき、なんとか食いっぱぐれることがないという状況になりました。ただ、面接に行く朝に、うちのお袋が「耳のことはだまっておくのよ。」と言いました。なんの抵抗もなく、ああ、そうだなと思いました。もちろん、履歴書にもなんにも書いていないですし、障害者手帳を持っていませんから書くほどでもない。ただ、面接の時に聞こえなかったらどうしよう、聞こえなかったら終わりだな、その時はなんとかごまかせるかな~と。そう思いながら、面接会場に着きました。幸いにも、たまたま声の大きい面接官だったので、無事に元気よく「ハイ!」と答えて、ごまかして滑り込みました。今日職場の誰かがいたらやばい発言なんですけど。


でも、初出勤で敢え無くばれてしまうんです。席に着いて「M君」と呼ばれると気がつかない。上司というのはたいてい自分の席に座ったまま、離れた席の自分の部下を呼びつける。そうすると全然わからないわけです。初日から「君、耳が悪いんじゃないか?」と言われました。「はあ、そうみたいですね。なんか最近耳の調子がおかしくて~」というところから、私の仕事が始まりました。


私の聴力は先ほどのグラフにありましたように、いい部分は右だけなんです。左は最初からぐっと下がっていますので、一側性難聴でもあります。ですから、どこかから呼ばれた時に、方向がどっちかというのがわからない。後ろから呼ばれたのに前の方をきょろきょろ探したり、左から呼ばれたのを右の方を探したりするから、よほどおもしろかったようで、職場の人にも結構からかわれることになっちゃうんですけども、そうなると僕のプライド面というのが刺激されてしまうんですね。


補聴器を買うようにと言われたんですが、今まで補聴器をすすめられたことがなかったですし、補聴器を使うという発想もありませんでした。なのでとりあえず5月の連休に実家に帰って、病院の先生に連絡を取って、補聴器を使わなきゃいけないらしいという話を両親にして、そして、医者に行ったわけなんです。右の良い部分の聴神経の細胞が少ないらしいのですね。だから非常に強い音が入るとダメージを受けてしまうので、左の方に補聴器をつけるといいですよと医者からアドバイスを受け、左につけることになりました。当時はアナログ補聴器で耳掛け式だったのですけど、第一に耳掛け式補聴器が似合っていない(???)。それとボリュームは上がったのだけれどもやっぱり聞きとれない、ということで耳掛け式補聴器を断念しました~というか捨てちゃいました。それから数年して、やっぱりダメだなあと思いまして、今度は耳穴式補聴器で目立たないのを買ったのですがやっぱりアナログでして、結局はそれも使わなくなってしまいました。


両親から、「頑張って、がんばって。あなたの様に、聞こえなくても社会に出て頑張っている人がいるということは、多くの聴覚障害者・聞こえない人にとって希望なんですよ」と言われたんです。でも、私以外の聴覚障害者・聞こえない人に会った事も無い。頑張れって言われても何を頑張ればよいのだろうと思ったんですね。「ああ、そうですか。」と言いながら、頑張れがんばれって、頑張ってもなあ...と。例えばお笑いのいろいろおもしろい番組があっても、漫才師、特に早口で、大阪の口調でまくし立てられると、フランス語かなんか聞いてる感じですよね。全く聴き取れない。それを聞くことが頑張ることになるのかなって思って、テレビにヘッドフォンを差し込んで一生懸命聞いたんです。あるいは、伴奏が低くて歌詞が聞き取りやすいような歌でも、聴くだけでは全部の歌詞はわからない。なので、歌を聴きながら歌詞を聞き取って紙に書いて、後で本当の歌詞と照らしあわせて、合ってるかどうか見たり。でも、どんなにがんばっても耳っていうのは良くならないのだということだけがわかりました。


職場では、耳をダンボにして耳学問しなさい、とよくいわれるわけですね。同僚とか、私より後にきた後輩達というのは、上司や先輩のやりとりを聞いたり、電話を聞いたり、いろんな耳学問をしながら仕事を覚えて新しい代理店との対応の仕方やトラブル処理の仕方などを自然に身につけていく。でも、そういったあたりまえのことが、自分にはできない、ということに気がついた。一年一年経つうちに、だんだん差がついていくような、そんな気持がふくらんできました。


会議とか研修会とかですね、人が増えたり、方向があちこちだったり、いろんな人が混じっていると、聞こえなくなっちゃうんですが、とにかく職場なので、将来給料下げられれば困るよな、変な所に飛ばされてもいやだしなと思うと、とにかくとにかくごまかすしかない。とにかくなんとかその場を取り繕うしかないんです。ただ、やっぱり心の中では、??????????、そういう目で見られているんだろうなと思いながら、上司には時々「なんだお前、そんな情報も持ってないのか、そんなことも聞いてないのか」と言われ、そのようなことば一つ一つに傷つきながら、なんとか過ごしてました。


そして、そのとき以降、雑談にも加われず、結局、仕事で、電話はまだ何とかできたんですが、電話をしたり、誰か来客が来た場合には、走っていって案内はできる。そういうことでカバーしていたんですけども、雑談というのは、みんな席に座ったまんまパソコンとワープロを打ちながら、書類なんか書きながら、相手を見ないで会話をする。そういったものは、全然加われないのね。だから、最初のうちは声をかけてもらうわけですけど、やっぱりまともな返事が返ってこない、また、かっこつくったような返事が返ってきたり、あるいは無視しているような...で、そういうことでは、だんだん疎遠になっていくんですね。同じ係の人であればあるほど、同じ部屋の中の人であればあるほど人間関係というものがギクシャクしていきました。そして私はそういった相手に対して、誤解を与えたということにも気がつかないことも多かったようです。なんていう風にあとで教えてくれました。「M君、君ちょっと耳聞こえないんだったら、言った方がいいんじゃない。みんななんか無視されてるって誤解してるみたいだよ」ていうことをですね、気づいた人が、一人か二人か言ってくれたんですね。そして、廊下とかですれ違った人たちだと割合すぐ近くで話ができますから、割合こう普通に仲良く話ができるんですね。なんで他の部屋の人と仲良く話をするのに、同じ係りの人、同じ部屋の人とは話をしないのか。なんか性格異常者のような、また、二重人格のような、そういう受け止めかたをされていたようです。


そして、飲み会っていうのはとにかく辛いんですね。居酒屋っていうのは、普通の健聴者でもなかなか聞き取れない所なんでしょうけど、でも、健聴者同士が会話が成立している所というのは、まあそういう空間があってその中に入っている人だと誰でも聞こえるだろうというものですね。そういった中で、全然会話についていけず、途中でみんなが笑っているんで、こっちもこっちで顔を見たら"ハハッ"と笑顔を作って、一生懸命黙々と食べて、そういうことで何とか早く2時間ぐらい過ぎてくれないかぁと時計を見たりしながら時間を過ごして、それでカラオケも大っ嫌いでした。結局は仕事についてはもう、与えられたことさえできればいいやと、とにかくそんな特別なことができなくても、与えられた仕事が、それだけできればいいんだと、それくらいでしか自分は何もできなかったんですね。だから、昇進は要するに望めないでしょう。まあ公務員だからクビにもされないからいいということで、非常にアフターファイブに全力投球するというダメ社員というかね、そういう風な社会人になってしまいました。とにかく、聞き取ろうとすれば神経が疲れます、ストレスがたまります。そして、周りの人とバリアを作って関わらないことで、自分を心の安定を図ろうとする。ちょうど中学校かその時の自分に、なんかやっぱりそこに戻っちゃうのかなぁという気持ちです。

 

4 手話との出会い ~疲れないコミュニケーション~


でも、いろいろとあちこちに動き回るのは好きだったので、いろいろスポーツをやってみたり、演劇をやってみたりしたんです。演劇も、体で表現するのは好きだったんですけど、アマチュア劇団を自分で作ったりとかいろいろとやっていたんですけど、挫折しました。というのは、アドリブに対応できなかったんです。シナリオ通りに進んでいるんであれば、どの役者にも負けないという気持ちでがんばっていたんですけど、アドリブが入ると対応できなくなってしまいます。アドリブというのは、約束もなく入るからアドリブなんですね。いわゆる演劇の公演をやっているその本番に入るわけですよ。本番に聞こえないというのは、これはもう致命的だったので、これから私が芸能界に入ることはできない。どこに行き着いたかというと、たまたま友人に誘われた手話サークルというところに行くになりました。それはほんとにきっかけはささいなことだったんですが、そこの手話サークルで、本当に僕はカルチャーショックを受けました。「なんだ、聞こえない人ってこんなにいるんだ」と。その手話サークルというのは聾唖者、聾者が多かったんですけど、ほとんど聞こえない聾者、そして聞こえる健聴者も手話を使って話をしている。こんな神経をすり減らさない、ストレスのないコミュニケーション手段があったのかということが本当に驚きでした。なんでこんなの医者も両親も教えてくれなかったのかと。こんな三十も過ぎてから教えてもらったというか、これがもっと小さい頃から手話なんて使えてたら、自分の人生がもっと違うかもわからなかった。本当に耳を使った会話というのは、どんなに努力をしても上達することは、その努力が報われるってことはありません。でも、手話っていうのは、努力をすればするほど、自分の身になっていくってことがわかったので、それからというもの、またいろいろありましたから、毎日手話サークルに通うことができなくて、あちらこちらの手話サークルが終わった後も、ファミリーレストランでお茶会をやっているってところに行って、新たないろんな手話を盗み見て、そしてテレビにビデオ、本、ありとあらゆる手段を使って、使い古されたことばでいうと、"乾いた砂地が水を吸収する"っていうようなことが起こるかなということでしょうか。わりと1年くらいで、まあそこそこ聾唖者と会話するくらいのレベルまでなりましたんで、ほぼ大丈夫、スムーズになりました。そうなってくると、居酒屋がもう楽しくて楽しくてしょうがない。どんなにうるさくても、そこにいる全員の話がわかる訳ですね。全員の話がわかるってこんなに楽しかったのかと。なんでこんなこと、自分は知らなかったのか。なんか人生の大事な大半の時間を損しちゃったような気がするんですね。お酒は全然強くなかったんですけど、とにかくもう毎晩でもいいやと飲み会は。週末はですね、いつも飲み屋さんで朝を迎えていました。とにかく誰かれつかまえて「ようし、もう一軒、もう一軒」っていう感じで、とにかく手話を使って話すことが楽しくてしょうがない。本当にストレスのかからないことばがあったんだ、こんなコミュニケーション手段があったんだ、全員の話してることが全部わかるってこんなに嬉しかったんだと。その当時ですね、ちょっと合宿があったんですね。"寝手話"ってご存知ですか。"寝言"って健聴者の場合ありますよね。ある聾唖者に「おまえな、努力しているのはわかるけど、寝手話が出るようになったら一人前だな。」と言われた。それが半年くらいで寝手話が出ました。それは友だちに「いやびっくりしたよおまえ、ゆうべ寝ているときに手話やってるんだよ」って言われて、「えーマジ、本当、やったー」ということでですね。これで俺も一人前だーーと思ったんですけど、そのくらい夢の中でも手話をやっていたくらい、はまったんですねこの頃。


 そして、さっきのその日本手話というものと出会った訳ですが、手話っていうのはたぶんご存知かと思いますが聾唖者の使っている、昔からの日本語とは全く文法の異なった日本手話というもの、もう一つは、しゃべっていることばに手話をつけていく、対応手話というものもあります。それで、私は最初、日本手話でやったんですが、その日本手話っていうのは、表情というのも言語の中の一部なんですね。だからまた、自分の意思をはっきりと表す。というのが、これが聾唖者の特徴であり、日本手話の特徴なんだと思います。二次的効果として自分で手話セラピーと書いたんですけど、中学高校時代ではあった無表情になってしまうということ。演劇をやる中で、少しずつそういったものが改善されてきたのかな、とすごく思います。手話をやることによって、ああそうか、"嬉しい時は嬉しいっていう表情を出していいのか"と"嫌って言う時には、嫌な表情をだしていいのか"ということを私は手話の学習と同時に、勉強しました。それまでは、とにかく周りに対して、自分自身が浮いた存在にならないように、目立たないように目立たないようにという、曖昧に曖昧にっていう風に三十何年生きてきました。手話っていうのはそれと全く正反対の生き方なんですね。自分の環境、意思をはっきりと表現する。そういう手話をやっていくというのが、もともとあった演劇的な素養と相まって、「おまえ手話はへたくそだけど表情は聾者並だ。」と言われるようになった。ある人は「おまえは手話がへたくそな分、表情でカバーをしているよな」とそういう風に言われるようになったんですが、自分の心が、コッチコチに固くなった心が日本手話と出会った事によって、やわらかく解きほぐされていったんですね。そしてもう一つは、その聾唖者という...ここ(スライド)に"ろう民族"って書いているんですけれども、やっぱりほんとにその、日本人に見えないんです。私、国際交流もちょっとやっていたんですが、変な言い方をすると、中国人の集団のように、とにかくみんなが集まるともうゴチャゴチャゴチャってあっちこっちあっちこっち話が始まって、「集まれー」って言っても集まらないんです。とにかく話が終わらない。会えば「おー久しぶり、久しぶりー」って、「ちょっといいか、ちょっといいか」が一時間、二時間になっていくっていう、そういうその混然とした、でもすごいエネルギーが溢れた"ろう民族"っていうことばを勝手に作ったんですね。そういう物怖じしない、はっきり物を言う、そしてマイペース、そういった聾者という存在がうらやましくてしょうがなかった。ああ、そんな生き方があったんだ、そんな人生もあったんだ、ということがほんとまぶしくてしょうがなかった。(スライド)ろう者伝説って書いてあるんですけど、健聴者と聾唖者って、捉え方ってけっこう違いますよね。手話を覚えた時にいくつか面白い話を聞いたんですけど、手話っていうのは自分の感情、意思をはっきりと表現します。ある聾唖者が新しく入った会社で、ある時「あー君、君、君、今日は申し訳ないんだけど、ちょっと残業いいかな?」って上司に言われた。それで、「えーーー」っていう表情を出したんだそうです。後で同僚に「だめだよ、あんた、ああいう時は、"今日はちょっと都合が悪くて"とか、"申し訳ないんですが"って言う、そういう風に対応をするもんなんだよ」っていうふうに健聴者に教えられたんです。その聾唖者はこう思ったんです。『へーー、健聴者って大変ね。』あーーそういう考え方があるんだなって思いました。そんな生き方ができたら自分も幸せになれるかなぁ。でも、ちょっと無理だわ。それはでも、ちょっと難しいかなぁと思いましたけど、でもなんかそういう話を聞くのが好きでした。もう一つは、私もその聞こえないっていうことを隠して生きてきた訳ですけど、手話サークルでは、私よりももっと聞こえない人がいっぱいいる訳です。なので、隠す必要はないんですね。なんですが、やっぱりどこかその、長年の習慣といいますか、健聴者に対しては隠していた。特に言わなくていいんだったら言わない。ある時、聾者にはちょっと言ってみたんです。「実はな、俺ちょっと、ちょっと聞こえないんだ」って言ったんですね。そしたら同時に「おー、なんだ」あっさり「なんだ」で、なんだで終わっちゃう話なのかということなんですが、「なんだ、んじゃ、おまえの耳に針刺してやっから、ろうになってこっちに来いよ」って言うわけです。健聴者、特に聞こえないお子さんを持つお母さんからすると、非常に乱暴なことばだと思うかもしれないんですね。これが一般的な聾者が言ってくるジョーク、まぁブラックユーモアなんですね。自分たちのいる聾唖者の世界に誇りを持っている。そういった世界に対して、私の場合には、まあそういう形で「おまえもろうになって仲間になれよ」っていう、そういうジョークを返してくれたりするんですが、そういう聞こえなくて当たり前、聞こえなくてもいいんだ、聞こえなくても生きている、元気に生きている人たちがいるんだ、というこの世界というのは心地よかった。というのは、それまでの私が出会ったことのない心地よさ。なので、この私にとってストレスを解消してくれる大切な場所だった。この手話サークルというのはですね。時々、「Mさんって、聴力はそんなに重くない、軽い方なのにどうして手話を始められたんですか?そんなに手話がお上手なんですか?」って聞かれることがよくある。まあ、普段の仕事、生活の中では手話は一切使っていません。でも、手話を使うことによって自分の心が救われる、ほっとできる、そういう場所があったということが、自分自身にそれだけ手話にのめり込むきっかけになった。 

 

5 難聴者との出会い ~障害受容のはじまり~


 そしてその次に、市の聴覚に障害を持った親御さんと、その子どもたちが一緒にキャンプに行くという、そういうのが一年に一回、親子ふれあい教室っていうのがあるんですね。それにボランティアで参加した時に、夜、子ども達が寝静まってからですね、別室で難聴の親御さんとボランティアさんと飲み会やるんです。その時に、難聴のお母さんに呼ばれたんですね。「ちょっとM君M君、あっちでちょっとお母さん達、話したいって。」って言われて、気軽に行きました。そしたら、そこにいたのが、難聴者のお母さん方。ぐるっと囲まれまして、「ちょっとM君、聞いたわよ。何であんた、聞こえないこと黙ってたのよ。ちょっと聞こえないんだって。もっと早く言ってくれてたら、もっと色んなこと話しできたでしょ~。」とかって言われたんですよね。「いや~、あ、そうっすか。」と。なんかその、意外だったんです。


それまでは聾者と聴者としかいない、ここにきて初めて難聴者と出会って、その方は手話はできるんですけれども、喋りとか話で私に言ってくれてたんですが、あの、何ていうんですかね、難聴のお母さん達にまで隠そうっていう風に思ったわけではなかったんですが、それ位自分の中で『隠す』っていうことが身に染み付いていた。長い間、自分の心の奥底に、"誰にも触れられないように、隠していくんだ。"っていうものが、そのことばをかけてもらった時に、でてきたんですね。で、何か恥ずかしかったんですけども、30になった大の大人がですね、泣いちゃいまして、自分でも何で泣いているのかわからなかったんですけども、こんなに隠して隠して隠していたのに、その隠していることを聞かれて、何だか嬉しい。自分が隠し通そうとしてきたことに触れられて、何かすごく胸が・・・。そういう気持ちっていうものがあったんだ、っていうことに、その時初めて気付きました。その時から、私と難聴の皆さんとの出会いっていうものが始まりました。


 そして、自分を隠し続けてきた自分自身の心、どうして自分はこんなにまで隠さなければならなかったのか。どうしてこんなにまでして、人を拒絶しなければならなかったのか。どうして、こんなにも誤魔化さずにはできなかったのか。その心をきちんと正面から向き合わなければならないということに気付きました。


 

6 変化するアイデンティティ ~聴覚障害者としてのリアリティ~


そして、アイデンティティがこの辺りからだんだん変化してきました。それまでは、健聴者としてのアイデンティティ、何か知らないけど健聴者の中でみそになっている。鬼ごっこなんかの時に小さい子どもが中に入れなくて...。鬼になっても鬼にならないで取りあえず遊ばせてくれる、仲間にはなっているんだけれども、同等の権利を持っていない。それがみそなんですね。私たちの地域ではそう言うんです。健聴者なんだけど、健聴者じゃない。難聴者なんだけど、難聴者じゃない。でも、健聴者として生きるしかない。他の生き方を知らない。何も知らないという自分が、聾者と出会って、新しい世界を知って、聾者の世界、ま、聾文化ということばがありますが、聾文化ということばがでるように、独特のアイデンティティが聾者の中ではあるとされている。すると難聴者のアイデンティティって何だかよくわかりませんけれども、聾でもなく、健聴でもない、そういう難聴者としての個性、アイデンティティという何かに、自分自身の気持ちが次第に向っていくのが、わかるようになりました。それ以前はもう、聾になろうと思いました。こんな自分でも聾者になりたい。聾者の世界で生きたい。けれども、やっぱり自分は聾者にはなりきれない。健聴者として育ってきて、健聴者の文化をしっかりと体に身につけて、そして、結構話ができて、音声聞き取って...。そういった自分自身のアイデンティティがどこに向かっていくか。

 

 当時、県の手話サークルの連絡協議会にいて、災害の取り組みを始めていました。その中で、災害ML、災害の際の聴覚障害者に対する情報提供とか、そういった色んな活動をしていく中で、色んな所から取材を受ける機会が増えてきました。その中で、1年、2年、3年っていう風に活動を続けていくと、やはり健聴者、今まで一緒にやってきた手話サークルの健聴者の仲間と自分とも何か違うらしい。何かモチベーションが違う。そう、リアリティが違った、ということに気が付いたんです。広報車が色んな給水情報とかですね、色んな災害の情報を消防車とかがスピーカーで叫びながら回っていく、そういったものとか、駅のホームや施設なんかのスピーカーの音がきちんと聞き取れない自分自身というのは、やはり聴覚障害者なのかな...っていう気持ちです。身体障害者手帳の交付は受けられないので、法律的には私は健聴者です。でも、災害の対策に取り組めば取り組むほど、やっぱり自分って聴覚障害者なのではないか、っていう思うようになったんですね。そうこうしているうちに聴力がだんだん低下してきまして、アナログ補聴器2個はもうだめだったんですが、今は、良かった方の耳にデジタル補聴器を入れて使っています。それで、やっぱり自分は聴覚障害者なんだな、というわけなんです。


そして、災害対策が社会に広がっていくうちに、色んなところから取材に来るわけです。で、取材に来るたびにですね、時々その、不意に「あなたは聴覚障害者ですか?」という風に記者から質問をされました。ある日そう聞かれて「軽度なんですけど、ちょっと聞こえません」。別れた後に何か急に気になってですね、記者に電話をして「すみません、さっきのことって、新聞に載っちゃうんですか?」って尋ねてしまったんです。「何かまずいんですか?」って聞かれて、「ちょっと2・3日考えさせてもらっていいですか?」やっぱりなんかその、新聞紙上で自分が聴覚に障害を持っているということが公になってしまうのか、と思ったらですね、なんかすごいプレッシャーがきたんですね。これから世間に、職場に知られてしまう日がついに来るんだというのがすごい突然プレッシャーになってふりかかってきました。


2・3日悩みまして、悩んで悩んで悩んで結局結論が出なくてですね、地元の仙台の重度の難聴者に相談したんです。明日は回答しなければならないっていうのもありまして、夜10時位にメールしまして、「いや~、実はこれこれこうでさ。明日、俺がちょっと聞こえにくいっていうことを、新聞に載っけるかどうか決めなきゃなんないんだ。」まー、何でこんな程度を悩むのかなという風に皆さん思うのかも知れないですけれども、私にとってはそんなことだけれども、天と地がひっくり返る一大事だったんです。そしたら、しばらく考えていた友人が、こう言いました。「(そろそろいいんじゃないか?)」(手話で表現)そうだな、そろそろいいか。って何かそんな気持ちになれて。何かこう、ことばでもなく、理論でもなく、その時その瞬間が来ないと自分の心が「うん」と言わない、ってあるのかもしれませんね。


手話も他の聴覚障害者のことも何にも知らないでいた自分自身が、わずか数年の間で、手話と出会い、聾者と出会い、難聴者と出会い、色々なことを知って、今は手話を通じて大勢の方と話しができる。そういう自分があって、そろそろいいかなっていう気持ちになったのかな。そういう自分自身のことを、追い立てるのでもなく、せかすのでもなく、黙ってその時が来るのを待っていてくれた記者さんだったっていうことが、自分にとって本当に恵まれた出会いだったと思います。


職場でどんな反応をするのかな、とかって思いながらですね、新聞記事を読んでいました。それがこちらです。(スライド)


"手話サークルの活動をしている私なんですが、私自身も障害があります。日常会話に支障はありませんが、音が交錯する場では声が聞き取りにくくなります。聴覚障害者の孤独感を解消すること、それがねらいです。"と書いてあります。これ、2時間くらい1人の記者に講演したんですね。「もうちょっと聞かせてよ。」とか言って、2時間くらい1人で喋ったんですけど。それが、たったこれだけ。でも、確かに一番最後に、自分が一番伝えたかった部分で本当は一番伝えたくなかった部分を合わせて一番最後に出たかな、ってことです。地元では一番メジャーな新聞で、ほとんど誰もが取っている一番メジャーな新聞なんですが、職場でもかなりの人数の方が読んだようで、しかし、しばらく誰も何も言ってこないので、怖かったんですけれども、そのうち、毎日顔を合わせている人は何も言わないんですね、逆に遠くの人から言われまして。「おー、M君M君、見たよ。頑張ってるね。」なんて、こんな感じで、これだけ。何だこれだけかって。何かこう、知られる事ってものすごく大変な事だって、夢の中の怪物のような感じでいたんですが、いざ出してみたら、何かこんなもんかっていう感じですね。拍子抜けしたっていう感じの、ホッとしたっていうか。何か犯罪者ではないですけれども、自分が悪さしたのを言っちゃった、スッキリしたみたいな、何かそういうホッとする感じがありました。


 

7 理解ある上司との出会い ~「隠しつづけた心」の開放~


それから程なくして、人事異動になりまして、そこでまた、かつて出会ったことのない上司、本当にこう、今まで、あ、今でも目の前にいるのですが、本当に感謝してもし尽くせないなあっていう方に、出会うことになりました。今までは、自分自身が触れないでくれ、聞かないでくれっていう感じだったからなのかどうかわかりませんが、私の耳のことについて触れてくる方っていうのはほとんどいませんでした。ところが、この上司っていうのがですね、話する時必ず私の側に寄って来るんですね。「あー、M君、右いいんだっけ?左いいんだっけ?どっちだ?あ、こっちだ。」とかですね、「俺の声、聞こえてるか?大丈夫か?」っていう風に、気さくに声かけてくれる上司でした。最初の時は、「しーっ」っていう感じで、「声大きい声大きい、聞こえる聞こえる」という感じだったんですけど、何回も毎日毎日何回も何回も言われてるうちに慣れちゃって。ちょっとした数人の会議っていうか、打ち合わせする時にも、「M君、こっちいいんだっけ?お前こっち来い。お前そっち座れ」とかってやってくれるので、何かすごい助かっちゃったかなっていう感じがありましたね。本当に、あんなに触れられたくなかったんだけど、何かすごい嬉しいっていう気持ちになりましたね。本当に、一つひとつの積み重ねだったと思うんですが。「あ、嬉しい。この上司好き。」みたいな、そんな感じになりましたね。


そして、人事異動して1ヶ月半くらいたったんでしょうかね、歓送迎会が開かれました。2週間?3週間...、ちょっとして歓送迎会がありまして。その頃、新聞にも載ったしな~、やっぱり最初が肝心かなという思いがあって、一番最初にその職場に行った時には言いそびれたので、この歓送迎会の時に一言ぐらい、今度こそ、よし、絶対言うぞ、絶対言うぞ。ファイト!という感じでですね、気合を入れて気合を入れて、こんなに気合を入れて臨んだ飲み会っていうのは、なかったんですが、気合を入れて飲み会に行ってきました。で、自己紹介をした時に、照れくさかったので「いや~、最近ちょっと年取ったせいか、耳が遠くなってきまして、色々ご面倒ご迷惑おかけするかもしれませんが、よろしくお願いします。」なんて落語家の挨拶みたいにですね、さらっと言ってしまったんですね。一応公式な場で、自分が聞こえないということを皆さんにお伝えした、私の記念すべき第1回が、この時なんですね。そしたら、奥の方に座っていた上司がですね、下を、若干斜め下を見ながら私の話を聞いていたんですが、最後、私のことばを聞いて小さく2・3回頷いてくれたんですね。何かそういうのを見た瞬間、涙が出そうになって。何で、飲み会の一言の挨拶で、自分が送別されるわけでもないのに、泣かなきゃいけないんだって思いましたけど。あ~、この職場に来てよかったなっていう気持ちを、こういう職場っていうのは、ありがたいですね。本当にこう、自分が努力をして作り上げた環境でもない、自分が努力をして得た状況でもないんでね。本当に、威張れるものでも何でもないんですが、でも、これだけ、ひん曲がって、面倒くさい、自分だったら友だちにしたくないような自分のことを、そういう僕の心をほぐしてくれて、受け入れてくれる職場だったり、そういう皆さんに恵まれたんだなっていうことを感じました。


そして、その後ですね、やっぱり補聴器が必要だって思いまして、アナログ補聴器2個捨てましたが、新しいデジタル補聴器というのがあるということを手話サークルで聞いてきましたので、早速、医者に行って、そして、補聴器屋さんに行って、デジタル補聴器、36万円!買いまして。ボーナス、それでなくなりましたけども。で、買いました。でもですね、その頃私、髪、これ位長かったんですよ。(耳の下辺り)補聴器が見えないように。これ結構、難聴者には多いんですね。聾唖者の人は気にしない人がほとんどなんですけども。難聴の、特に、軽度になればなる程、軽くなればなる程、男性もですね、女性も、髪で補聴器を隠す人っているじゃないですか。私も何かこう、髪を伸ばしてですね、補聴器が見えないようにしてました。なんですが、一つひとつゆっくりゆっくり階段を上がっていって、ま~、ここまで来たからいいかなって、そういう気持ちで、補聴器を買って1ヵ月考えて、髪を切りました。そして、補聴器が見える状態にして、今ではちょっと聞こえない時、えっ?て補聴器を見せたりします。「えっ、何だって?」って。一応、そういうアピールができるようになって、やっと、自分で自分のことを許すっていうんでしょうか、隠していた心が解き放たれていったなあって。


 

 そして、その後ですね、こんな私でも係長に昇進しまして、部下というものが一気に3人できまして、ちょっと離れた部屋も合わせると全部で7人の部下がいるのですが、まぁ、部下の教育というか部下の状況を把握するっていのがこれまた耳を使う仕事なんですね。部下同士がぐちゃぐちゃとやりとりをしている。あるいは部下同士が何やら相談をしている。部下が何やら深刻な顔で電話をしている。っていうと、普通の係長さんは呼ばれもしないのに、「どうした?」「いや、それは違う」ってですねアドバイスを適切なタイミングでするわけです。それができないわけですね。まぁ何回か、「あぁ~M君、係長としてはまだまだ失格だな。」って言われながらですね、はぁ~。でも、先ほどの上司がやっぱりフォローしてくれまして、「M君、部下にちゃんと耳のこと伝えたか?」って言うふうに声をかけてくれまして、「あぁ、このまえちょっと言いましたぁ~。こっちの二人にも言おうかなと思っているんですけど。」っていう感じで、ぽっと、肩を軽くね、押していただきました。そうこうしてるうちに、同じ島って言うか机を並べた部下、部下二人がですね、ちょっと遠くから私に話しかけてきた人や上司がいるときに、オウム返しに要約して教えてくれたりとか、呼ばれた時に肩をたたいたり、向こうだよと教えてくれたりとか、そういった協力が、少しずつ少しずつ、広がっていくようになりました。


で、そのころもう一人、私は大学の方に勤めているのですが、同じ大学に重度の聴覚障害者が教員でいまして、二人で学内手話普及計画、手話普及プロジェクトと名をうって二人で手話で会話をして至る所を歩き回って手話を見せつけようというプロジェクトでして。聴覚障害学生に対して手話のサポートをしたりですね、要約筆記のサポートを受けさせるために、昼休みに学内の課長とかがいるときを見計らって、手話で会話をしながら前を横切ってみたり。いろんなことを時と場合によって。私自身がきこえる環境であれば、彼のための手話通訳。去年学長選挙があったんですが、学長選挙の会場がわかってて、スピーカーを使ってバンバン聞き取れるというのがわかってて、学長選挙をやっている最中に席の一番前に陣取って、私が手話通訳をやって、『ここに聞こえない人いますよ』ってPRしたんですね。で、そういったことが段々、段々、自分としてもできるようになってきたんですね。


そして、去年はその総合防災訓練で、私が職場での災害担当だったんですが、初めて要援護者としての障害学生の支援っていうのを計画しまして、自分自身の経験や体験を、交えながら皆さんに、聴覚障害者っていうのがうちの大学に4名いましたんで、そういったことの説明をしながら、あるいは共通理解をしながら、あるいは...、協力しながら、そういう仕事もさしていただきたいと思いました。


今こうして振り返ってみますと、本当に聞こえないことが辛かったんですけど、でも一番は聞こえない自分自身を受け入れられなかった、自分が聞こえない、ちょっと聞こえにくいということを受け取りきれなかった。認められなかった。そして、誤魔化して、周囲に隠して、そうやって生きてきた、そのことが一番辛かったですね。聞こえないことそのものよりも、誤魔化して、隠して生きることが一番苦しかったですね。ようやく、気づくことができました。気づくことができたというか、そういう部分で、自分自身の見直しができました。私自身、そうか、これまでの歩みっていうのは以上のような流れなんですけど、本当にその~こんな自分ですから、聴力が重いヘビーな障害でもないのに、いや~こんな話していいのかなぁ?っていうのもあるんですよ。でも、聴力が軽くても、結構傷ついていた人間がいるっていうことに気づいていただいたら嬉しいなと思います。


確か、WHOの基準で言うと、昔はデシベルが基準だったんですけど、今は、社会参加の交換性っていうのが取り上げられているんですよ。社会参加の交換性って言うのは、例え聴力のデシベルが高くても、完全にきこえなければそれは100聞かなかったことと同じになるということをみんなに知ってもらいたい。7割、8割、あるいは9割聞こえていたとしてもそれが特に仕事っていう自分が責任を持たなければならない事態に陥った時には、もうそれは100か0の世界です。だから、聴覚の障害、デシベルが軽くて障害が軽いように見えても、非常にその社会参加の交換性というものには、健聴者の方からみると非常に不利なものなんだということを一人でも多くの方に気づいていただけたらなと思っています。そして自分自身は、自分自身の場合は、まぁ何かにに対してイジイジイジイジ考え込んでしまうタイプなので、原因とか、どうして?なぜに?っていう疑問追求というのがすごく多かったですね。だから一つできなければ、やれない、どうして?っていうのが非常に強かったのですが、自分自身の心がわかっていったときに、単に、こう、じわぁ~と出てきた感情だけではその感情を誤魔化してきた背景、自分の心のホントの叫び、自分の自分から出てる心の根っこの部分、今まできいて来なかった自分自身の叫び声、そういったものに耳を傾けて、自分の心を知っていったんですね。私の場合は心が少しずつ楽になりました。そして、たまたま、たまたま私の場合には職場でも友人でも非常に恵まれた、ま、環境と言うか場をいただきました。でも、そうでない方もたくさんいらっしゃると思います。

以上、私の講演はこれで終わらせていただきます。つたない話ですが、ご静聴ありがとうございました。                  



この講演は2004年に行われました。
当時とは少し環境的な要因が異なってきていますが、軽中度難聴の本質的な問題はなんら変わってはいません。

 

軽・中度難聴のむずかしさ-聞こえにくい子どもを育てた親として-

H.A(東京都)

<はじめに>

私には、聴力60dBの聴覚障害の息子がいます。
まったく聞こえないのではなく、補聴器をつけた聞こえにくい子どもとしてどのような子育てをしてきたか、またその過程でどのようなことを考えたか、今日はお話させていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
軽・中度難聴のむずかしさというのは、いくつかの問題があると思いますが、まずはある程度聞こえているがために、障害の発見が遅くなり、言語獲得の面で学齢期に大きな問題を抱えたままで教育を受けているケースが多いということがあります。
障害の発見時期の問題が以前からあった大きな問題ですが、今は、また別な問題が起きています。

新生児聴覚スクリーニングの検査によって、軽度難聴や片耳難聴などの発見が新生児期に行なわれるようになってきたということです。
いままで発見が遅れていたのが、早くなったのだからいいのではないの、と思われるかもしれませんが、なかなかそうはいかず、そのような軽度のお子さんや片耳難聴のお子さんに、最早期からどのような支援、療育をしていけばいいのか、よくわかっておりません。
また、70dB未満の聴力では、福祉の対象にもなりません。
まだ若いご夫婦が、生まれたばかりのお子さんに中度の難聴が発見され、補聴器が有効だと言われ、それを自費で購入しなければならないということが起こってきます。
私の地元にもそうした親御さんがいて、なんとかならないかと相談されていますが、行政に要望を出しても、国の決まりどおりという返事しか返ってきません。
子育て支援の一環として何とかならないかと思っています。
厚生労働省のほうでは、眼鏡と同じで、視覚障害のお子さんは福祉の対象になるが、ただの近視では眼鏡は自費だからという考えらしいのですが、ちょっと違うのではないかと私は思っています。
新生児スクリーニングで早く発見されても、その療育の受け皿や福祉的支えがないという問題があるわけです。

さらに、最近は、高度難聴やろうだったお子さんが人工内耳の手術を受け、聴覚活用ができるようになり、教育の場を聾学校ではなく、地域の小学校を選んで進学されるケースが増えてきつつあります。
そうしたお子さんは、中等度難聴の子どもに近しい聞こえ方になるようで、インテグレーションでの中等度の子が抱える問題が同じようにそうしたお子さんにも起こりうることが予想できます。
中等度難聴の子どもたちが、地域の小・中学校でどのような困難を抱え、それはその子たちの人間形成にどのような影響があったのか、このことを医療側も保護者も教育界も、真剣に考えてほしいと願っています。
ここでは、親から見た軽・中度難聴の難しさを話させていただきます。

 <子育ての過程で見えてきたもの>

今日、お話しする内容は、次の5つの項目について触れたいと思います。

• <聞こえにくさ>を聞こえる人間が想像するむずかしさ
• 教育環境選択の困難さ
• 親の思いと本人の思いのずれ――情報保障の問題
• 手話との出会い、仲間との出会い――自分の居場所探し
• 肯定的自己像の獲得のために必要なもの

最初の<聞こえにくさ>を聞こえる人間が想像するむずかしさについては、私の話の最後にまとめてお話したいと思います。
息子を育てて、そろそろ18年になろうとしていますが、本当に息子の聞こえにくさを聞こえる親が想像する、しかも学校生活の場面を想像することはむずかしく、いまだに、ああそうだったのか、こういうことだったのかと反省させられることの連続です。
また、聞こえにくさとは別に、不快な音に対しての感じ方も、私たち聞こえる人間とは違い、息子は、幼児期には、地下鉄の丸の内線の音が大嫌いで、恐怖を感じて泣いてしまうほどでした。
先日、ある成人の難聴の方のお話では、食器の触れ合う音が嫌いで、ご夫婦での家事の分担で皿洗いだけは免除してもらいたいというお話を聞き、聞こえる人間の感じる不快感とは、きっと桁がちがうのだろうなと改めて思いました。
そうしたことを言葉で説明できるようになるまで、子どもは年数がかかりますので、幼児期はずいぶんいろいろな思いをしながら、集団生活を送ってきたのだろうと思います。
聞こえにくさを聞こえる人間が想像することは、むずかしいものだとしみじみ思っています。
では、我が子の育ちをご紹介しながら、今あげた項目に触れていきたいと思います。

 <我が子の育ちについて>

息子は、4歳上に長女がいます。
息子の場合は、中等度の難聴だったのですが、発見は早く、新生児期にABR検査で聴覚障害の疑いありと告げられました。
いくつかの合併症のある子でしたので、出産病院で、いろいろな検査をして、聴覚でひっかかったというわけです。
生後1ヶ月、3ヶ月、半年とABR検査をして、その後、小児難聴の専門の病院を紹介され、7ヶ月で聴覚障害の確定診断が出ました。
8ヶ月から1歳までT大学病院でホームトレーニングを受けました。
1歳1ヶ月で補聴器を右耳のみ装用(右耳65dB、左耳110dB)。
身体障害者手帳6級ということで、福祉の補助は受けられました。

<育児の過程で与えられた言葉>

育児の過程で、いろいろな方から与えられた言葉があります。
たくさんの言葉をかけていただいたのでしょうが、強く残っている言葉をいくつかあげてみます。
3ヶ月健診のときに、どうも聴覚に障害があるらしく、経過をおって検査しているとお話したら、保健所の小児科医から「お母さん、難聴は教育、訓練ですよ」ということを言われました。
また当時、私は難聴児の子育てがとても心配で不安で、家にいても落ち着かず、手に入りそうな書籍を買ったり図書館で借りて読んだりして、どうしたらいいのか悩んでばかりいました。
そうした本の1冊に全国難聴児を持つ親の会の連絡先が載っていました。
勇気を奮って、その連絡先に電話をして、親の会の先輩の方に1時間くらい泣きながらお話し、いろいろアドバイスもいただきました。
その方からは「一日24時間を神様に倍にしてもらっても難聴児の親には時間が足りないくらい子どものためにやることがたくさんある。
でも、親がちゃんと教育すれば必ず成長する。私の子も今は大学院で研究している。
でも言葉を育てることはできても、心を育てることはなかなかむずかしい」という内容のことを言われました。
一日48時間あっても足りないほど、難聴児の親はやることがあるのか、しかし、親が一生懸命やれば、大学院にまで進めるようになるのかとそのときに思いました。
ホームトレーニングを受けた大学病院の耳鼻科医からは、「補聴器をつけて訓練すればことばは獲得できます。手話でなくても大丈夫。聾学校に行かないでもやっていかれます」と診断のときに言われ、また難聴の説明のときに「子どもを育てるのは専門家ではない、他の誰でもない、親であるあなた方なのですよ」ということを強調されました。
こうして0歳児のときに与えられたいくつかのことばは、私の子育ての基礎となり、方向性を決める上での大きな影響となりました。

<どのような療育を受けたか>

不安で落ち込んでばかりいた私も、だんだんになにかやらねばならない、聴覚障害児には訓練が必要、親が時間をかけて懸命に取り組む必要がある訓練があるらしい。
しかしどこでそれを教えてもらえばいいの?何をしたらいいの?と確定診断後の療育に気持ちが向くようになりました。
ホームトレーニング終了後、大学病院からは聴力は軽い方なので補聴器をつけて家庭で丁寧に接すればいいとのことで、その後の療育先は紹介されませんでした。
3ヶ月ごとに受診し、聴力検査や補聴器の調整などのケアを受けるだけの日が続きました。
しかし、障害のある子をどう育てていったらいいのか、どう接したらいいのか、聞こえにくさをどう補ったらいいのか、自信がなく、だれかに助けてもらいたいという思いが強く、たまたま知り合いのお母さんから教えられ、地域の障害児が通う通所訓練施設に相談に行きました。
運動発達も遅れていた息子は、1歳半からそこの通所訓練に週2~3日通うこととなり、そこでいろいろな障害のある子を育てているお母さん方と知り合い、動物園の遠足や夏の海での宿泊行事などに参加したり、子どもと楽しく遊ぶ体験をたくさんさせていただきました。
手遊び歌なども私はなにも知らなかったのに、その施設でずいぶんいろいろ教えていただき、子どもと一緒に遊ぶ楽しさを味わえるようになりました。
ただ、そこではダウン症のお子さん、発達障害のお子さん、肢体不自由のお子さんたちが多く、聴覚障害の子は息子以外だれもいなくて、聴覚に関する専門的な指導は受けられませんでした。
子ども同士からのもっと豊かな刺激がほしいと思い、2歳半から保育園に週3回母子通園させていただけることとなり、そこで同年齢の聞こえる子の成長ぶりにびっくりしてしまいます。
我が子にもっとなにかしてやりたい。このままではいけないとあせりもしました。
聞こえる子たちと我が子を比較して、その大きな落差のある現実を突きつけられてどうしたらいいのだろうと悩みも深くなりました。
そうしたときに、大学病院の言語指導のグループに入れていただけることとなりました。
3歳過ぎのことです。週2回、大学病院に通い、個人とグループの指導を受け、週3日は保育園に通うということを小学校の入学まで続けました。
そして、大学病院の指導を受け始め、息子は音声語をどんどん砂に水が吸い込むように吸収し、身につけていきました。
それは、やはり中等度の聴力だったということが大きな味方になったのだと思います。

 <当時の指導法は聴覚口話法のみ>

当時は、指導のやり方は聴覚口話法のみで、口形をはっきりさせ、よく子どもに見せて明瞭に話す。
少しオーバーぎみに表情や動作をつけ、子どもを注目させる。
子どもの興味をひく題材を探し、何度も繰り返し楽しく遊ぶ、絵日記や再現遊び、ごっこ遊びを家庭で工夫し、言葉かけをしていく。
そうしたことは、大学病院でSTの先生のやり方を見、基本を学んで、家でその子に合わせて母親が考えて作り上げていくというやり方でした。
生活の場がすべて言語訓練の場となり、このことを覚えてもらうためにどのような生活をして、どのような場面を設定してと、いつもいつも考えていました。息子の場合は、手話、指文字、キュードなど何も使わずに、指導を受けました。
文字は早めに覚えるように工夫し、4歳過ぎには読めるようになり、5歳前にひらがなも書けるようになりました。
日記指導を5歳くらいから始めて、並行して子供向けの親の日記も書き、それを使って読み取りの力を育てていきました。
しかし、息子の場合は途中からパターン日記になってしまい、いまだに文章を書くのは大嫌いです。
親のやり方に少々無理があったのかなと反省しています。
絵本は山のように読んだという言葉どおり、十分に活用しました。本好きの子には育ちました。

 <インテグレーションをめざして>

このように大学病院で指導を受けるということは、就学までに言語力を育て、当然のように地域の小学校にインテグレーションをしていく、そのために親子で頑張るということでした。
小学校入学後にスムーズに聞こえる集団に入れるようにさまざまな集団の行事やルールを身につけておき、勉強面のみではなく、あらゆる面で先取り教育をしていきました。
幼稚園などの行事の理解の徹底や前もっての練習により、聞こえる子たちの集団にすでに知っていることとして安心して参加できるようにする、そのような幼児期を送っていたと思います。
十分な言語力と就学前までに小学2年生くらいまでの学習を終え、その貯金をもって地域の小学校に入学していく、まさにインテグレーションをめざして、まっすぐな一本の道を歩んでいたようでした。

 <幼児期から小学校低学年までの息子の言葉から その1>

さて、そのような日々の中で、本人はどのような思いをしていたのでしょうか。
大学病院と平行して通っていた保育園であった出来事をめぐっての、息子の言葉を紹介します。

 ・週に3日通っていた保育園で友達とアニメのキャラクターになるごっこ遊びをしたときに「僕は○○ちゃんと二人で遊んでいるとわかるのだけど、他の子が入って3人、4人になると、だれが何をやっているのか分からなくなるんだ。だから、他の子が入ると僕はぬけちゃうんだ。」
-保育園の先生から「自分のやりたい遊びしかやらない協調性のない子」という指摘を受け、家に帰ってから、今日はお友達と遊んでいるときに途中でやめて、一人でイスにすわっていたんだってと聞いたときに答えた内容です。
幼児ですので、このとおりの言葉ではありませんが、65dBでも多人数のなかでのコミュニケーションは困難だということにすでに気づいていました。
本人なりの自己防衛であり、聞こえにくさの自覚だったと思います。

 <幼児期から小学校低学年までの息子の言葉から その2>

就学児健診や教育委員会とのやり取りを経て、地域小学校に入学が決まり、上の娘と同じ小学校に入学する朝のことです。

 ・小学校入学式に出席するため、両親との登校時、もうすぐ校門が見えるというところまで来たときに、急に立ち止まり、後ずさりしながら「僕、小学生になる気持ちじゃないよ。赤ちゃんに戻りたくなっちゃった。」
親である私も大きな不安、ちゃんとやっていけるのだろうかと心配しながらの就学だったのですが、本人はもっともっと不安だったのでしょう。
入学式では、補聴器を手で隠しながら入場してきました。

  ・ そうして心配しながら始まった小学生生活ですが、担任の先生や学校側の配慮をいただき、楽しい学校生活を過ごし始めました。少し慣れ始めたころの言葉です。
「学校っておもしろいね。先生が<おかし>って言うんだよ。押さない、駆けない、しゃべらない、なんだって。先生っておもしろいことを言うね。」
座席の配慮などがあれば、中等度の子は担任の先生のゆっくりはっきり話す内容は、何とか聞きとれ、つかめていました。

毎日楽しく登校し、放課後も近所の子とよく遊ぶ、元気な一年生になりました。
大学病院の指導は就学までで終了し、専門的な指導や聴覚管理の場がなくなったので、1年生の終わり頃より、市外の難聴学級に通うようになりました。
本人にとってというより、親の心理的な支えがほしかったのだと思います。

 <幼児期から小学校低学年までの息子の言葉から その3>

 ・2年生の半ばから、授業の進度は早くなり、また教室内での子ども同士のやりとりが活発になってきました。
担任の先生からも、クラスの雑談が聞き取れず、それを後から説明しても、みんなのそのときの楽しさが伝えられないで、困っているという話が出ていました。
そんな頃の授業参観の日に、だれかの冗談にクラス中が笑い転げたときに「なんで笑うんだ。僕はちっともおかしくない。何がおかしくてみんなが笑っているのか分からない。笑うな。」と言って、一番の仲良しの友達の椅子をけっ飛ばすという出来事がありました。

 ・ 校庭や体育館でのマイクの声などは聞き取れず、FM補聴器を試してみたり、補聴器を変えてみたりした3年生の頃、「僕一人が聞こえない子なんだよ。僕一人が補聴器をつけているんだよ。学校のみんな全員がわかっても僕一人がわからないときがあるんだよ。」と訴えてきました。
親ができることは、補聴器の調整を変えてもらったり、当時故障の多かったFM補聴器を車で工場まで持ち込み、早く修理をしてもらうくらいのことしかできませんでした。

 <聞こえる集団の中で>

学校中、聞こえる人ばかりの中で、補聴器をつけた聞こえにくいたった一人の存在であることの自覚が、息子は強かったようです。
また、放課後の遊びの中でも取り残される体験をいろいろしていたようです。
かくれんぼ遊びの時に片耳しか補聴器をつけていない息子は、左右の方向がわかりません。
鬼になってもなかなか見つけ出せずに、他の子はつまらなくなり、鬼を残して他の遊びを始めてしまったことがありました。
遊びの中でも取り残される、置いてきぼりにされる体験をしていましたが、親にはその寂しさは、訴えてきませんでした。
また、3,4年生のギャングエイジといわれる時期の群れて遊ぶ集団には入れませんでした。
家でもっぱらファミコンゲームをして遊んでいて、ファミコンとおやつ目当ての子たちが遊びに来てくれました。
しかし、ゲームをしながらの会話には入れず。
聞こえる子たちが駆使する音声言語の複雑さには太刀打ちできなくなりました。
イントネーションやアクセント、声の調子などにこめる微妙なニュアンスは息子にはわかりませんでした。

<場の雰囲気を掴めない子、全体の気持ちに乗れない子、わがままな子、自己中心的な子、みんなより幼い子>という扱いになり、お世話される子という自分の立ち位置に本人は甘んじられず悔しい思いをしていたようです。
そして勉強だけでは負けない、馬鹿にされたくないという強い思いや自負心が出てきて、聞こえる集団は安心できる仲間集団ではなくなっていきました。

 <インテグレーション環境の中で>

小学校の高学年になると、聞こえる子どもたちの精神的な成長にどんどんついて行けなくなりました。
集団の中での調整能力や協調性、皆と一緒になにかを成し遂げる喜び、達成感などから置いてきぼりになっていきます。
学校生活の中では勉強よりもこうした力をつけていくことが大事なのではないかと思います。
勉強はある意味、一人でもできる。
一人ではできないものはなにか、集団生活の中で本当に育てなければならないものはなにかを、親はもっとよく考えるべきだったと思っています。
たとえば、学芸会の準備で長い時間かかって皆疲れきっているとき。
でもそうしたときに「あと少しだからみんな頑張ろう」とだれかが一言声を出す。
疲れていたのは自分一人ではないのだ。
他の子も疲れていても最後まで頑張ろうとしているのだとその声かけでわかる。
そこでまたみんな疲れがとれてあと一頑張りできる。
そうした言葉のご褒美に聞こえない子、聞こえにくい子はあやかれないのではないかと思います。

また、大人が教えられることと教えられないことがあります。
簡単に言うと悪知恵がつかない。正論しか言えないということでしょうか。
「本音と建て前」の建て前の部分でしか物事を捉えられない傾向があります。
親や教師は正しいことしか言えない。裏の部分、陰の部分、隠している部分が聴覚障害の子にはわからない。インテグレーション環境では人を表面的にしか理解できなかったり、本音でぶつかる相手がいないという状態が多いのではないかと思います。
そうした人間心理の本音や複雑さ、心の中のどろどろしたものなどは、息子は中学1年生のときの長期のイジメ体験の中で学んだのだと思います。

悲しい体験だったのですが、中学校生活がなんとか落ち着いてきたときに、こんなことを言っていました。「人間の心の複雑さを学んだよ。お母さんに聞いても、答えてくれるのは正しいことばかり。でも人間ってそうじゃないんだよね。」
純粋培養してしまった、大人から見て「いい子」は、子ども集団の中では「変なやつ」と思われてしまうことがあるのだと、また親としての至らなさを思い知らされました。
子どもにつけてやりたい力は何なのか?どんな大人になってほしいのか?どんな人間となり、どのように社会に出て行ってほしいのか?目先のことではなく、10年後、20年後を考えて子どもの成長を支える道はなにかを考えるべきだったと思います。
私の子育てのころは、迷わずインテグレーションを選び、その環境の中でいかにうまくやっていけるかを考えていましたが、インテグレーション環境の中で、本当に社会性はつくのでしょうか?
多くの子どもたちがいることだけで豊かな環境だと言えるのでしょうか?
このことは、聴覚口話法の検証とともに多くの方に考えていただきたい問題です。

<教育環境の選択>

今、お話したようにインテグレーションは、聴力の重い子のみならず、軽中度の子にもある意味、負担の多い環境であるということは、お分かりいただけたかと思います。
しかし、音声語でやり取りできる軽中度の子は、今までのろう学校は選択しにくかったのも事実です。最近、聾学校の就学基準も見直され、また特別支援教育へと障害児教育が転換されます。
なにがなんでもインテグレーションという切羽詰った選択ではなく、柔軟ないつでもその選択を見直しできるような教育になっていってほしいです。
それから、軽・中度の子どもたちは、本来なら難聴学級が支えになってくれるはずですが、私の地域には難聴学級はなく、市外への通級は時間的にも体力的にも負担が大きかったです。
また一番大事な在籍学校への難聴理解啓発などはなかなか行なえず、親だけでは学校への働きかけが大変でした。
現実には難聴学級が軽中度の子の十分な支えにはなっていないと言えます。
親たちにしたら、どこにも理想的な教育環境はないというのが、正直な思いです。
我が子に少しでも教育を受けやすくしてやりたいと親たちの個別な試行錯誤が、今いろいろ行なわれていて、パソコン要約筆記による情報保障の試み、小学校での手話での授業保障など、待っていられない親たちがいろいろな方の協力を得ながら、教育環境を少しずつ変えていっています。

 <親の思いと本人の思いのずれ -情報保障の問題->

そうした情報保障の広がりの中で、親の思いと本人の思いにずれが生じているケースがあります。

  • 聞こえない、聞こえにくい子たちの学習を支えるために授業に情報保障をつけたい、というのが親の思いだとしたら、本人が求めているのは、集団の中での一体感を感じたいというのが多いのではないでしょうか。
同じ空気を吸い、クラスメートの冗談に笑い転げるクラスの一員としての存在、そんな自分になる手助けを情報保障がしてくれたらという願いがあるように思います。

 • 学校は子どもにとって長時間過ごす生活の場、勉強以外の学校生活がどうなのかは、とても大切なことだと思います。
しかし、休み時間やお昼休みの雑談になかなか情報保障はつけられません。
→今は、手話を使い、それを同級生に教えてコミュニケーションをとる聴覚障害児が出てきました。
いろいろな力を獲得し、それを発揮していける環境になりつつあるのかもしれません。
多様性の時代になってきたとも言えます。

<手話との出会い、仲間との出会い -自分の居場所探し->

聴力が重いお子さんに比べ、軽中度の子は、手話との出会い方もなかなか難しいです。
ある場で、他にも難聴児がそばにいたので手話つきで私が話しかけたときに、ある中等度難聴の女の子は、「私は手話でなくてもわかるからね」と言い、私が手話つきで話すのを嫌がりました。
同じ補聴器を使う聴覚障害の子どもなのに、音声語が使えるということから、手話など自分には必要ないと思っている子どもがたくさんいます。
しかし、そのままでは、自分以外の聴覚障害の人、手話を使う人とはコミュニケーションがとれません。たぶんそのまま、手話を必要としないで育っていく子たちもいることでしょうが、どこかで同じ障害のある人たちと出会ってほしいものだと思っています。

また、聞こえる社会だけで過ごしていて、音声語の簡便さにどっぷりとさらされている。 
そして自分の言いたい事、自分の要求は音声語で通じてしまいます。
聞きとれなかったことに、子ども時代はそれほど困らずに過ごしていくこともできます。
自分の聞こえた範囲で判断し、それでいいと思っている・・・、そこから次の段階に行くときにとても時間がかかってしまうケースがあります。
たとえば、高校まではなんとか自分のやり方で学習についていくことができても、大学では大教室でマイクを使った講義にとたんに苦労する学生がいます。
しかし、自分は聞こえているんだ、これまでもこれでやってきた、特別扱いをされたり、情報保障などいやだ、まして手話などとんでもないという学生がいます。
そして自分の障害を認識するのに1年、2年とかかってしまうこともあります。
「自分は聞こえている」と思っている限りは聞こえない集団には入れない、では、本当に聞こえる集団の中だけでやっていけるのかというと、そこでも中途半端、その集団にも入れない。
どこにいっても不全感があるという聴覚障害の青少年がいます。

聞こえる、聞こえないに関わらず、仲間、友人を強烈に求める思春期に、どのような人との出会いがあるか、自分の居場所が見つかるのか?これが、とても大きな意味を持つと思います。
たった一人の聴覚障害児、そうならないようになんらかの支える場が必要です。
今は、さまざまな聴覚障害関係の活動があり、アンテナをはっていれば、情報を得ることができます。フリースクールや親の会の活動、聴覚障害の大学生の団体などがありますので、そうした情報を得て、どこかで誰かと出会ってほしい、そして自分以外の人と出会うことで、自分自身をそこでまた見直してほしいなと思います。

 <肯定的自己像の獲得>

聞こえる集団の中では、よくわからないままで回りに合わせて行動していたり、いつもみんなからワンテンポずれてしまう。
集団での話し合いに参加ができず、結果だけを知らされ、自己表現の機会が少ない。
このような状況では、当然自分に自信がもてない、自己評価が低くなりがちです。
自分はこれでいいのだ、ありのままの自分でいいのだという自己肯定感は、仲間や友人、先輩との出会いの中で育まれるのではないでしょうか。
他者との出会いを通して、はじめて自分が置かれている状況が見えてきます。
そして自分より先を歩んでいるロールモデルの存在が、聞こえる人間ではない自分の将来を考えるときに大きな励みになると思います。
聞こえる集団の中のたった一人の聴覚障害児では、肯定的自己像の獲得は難しいのではないでしょうか。自分を好きになり、自分の将来になんらかの夢を持てること、これは現在では、聞こえる子どもたちにも難しい課題なのかもしれませんが、障害というより高いハードルがある子どもたちにとっては、さらに難しい問題となっています。
インテグレーションの教育環境の中にいたとしても、どこかでそうしたものが用意されていることが、子どもの成長を支える大事なキーポイントになると思います。

 <聞こえにくさとは?>

さて、一番最後に残した項目ですが、聞こえにくさを聞こえる人間が想像する難しさについて話したいと思います。
私自身が聞こえる人間ですので、子どもが日々感じている不自由さを十分わかっているわけではありません。
日常生活をともに送っている私でも、我が子の状況は、本人からの訴えがない限りわからないのです。まるで聞こえないのではなく、聞こえにくい、聞き取りにくい――かえって聞こえていないほうが説明は簡単、周りに自分の聞こえ方を説明しにくい、また話したとしても理解されにくい、環境に左右され、同じような状況なのに聞こえたり、聞こえなかったりする、周りにとっても自分にとってもあいまいである。
そして発音が明瞭だと、いくら説明しても回りはすぐに聞こえていると勘違いしてしまう。
軽・中等度の難聴児は、生育の過程では音声語はあまり困難なく獲得できますが、それで言語獲得がすべてスムーズにいくとは限らないわけです――思考言語の獲得はおしゃべり言葉とは別の次元の問題で、ぺらぺらおしゃべりはするが、きちんとした思考言語、学習言語の獲得に結びつかない子どもたちがいます。

聴力が軽・中度であっても、その発見の時期、生育過程などにより、言語力の獲得が十分でなく、学校教育を受ける上で非常に困難を抱えている子どもや、また言語力は十分あるが、インテグレーションの中で、小学校中学年・高学年でコミュニケーション不全から、学校生活が辛く困難になっていった例などがいろいろあります。
それからしゃべり言葉と思考言語の違いについては、聞こえる子どもたちのバイリンガル教育について書かれた「英語を子どもに教えるな」(市川力、中公新書ラクレ)という本が、セミリンガルの危険性についてふれています。
セミリンガルというのは、日本語も英語も中途半端な獲得しかできない状態です。
アメリカで暮らす日本人の子どもたちの多くが、発音だけはネイティブ並みでも、話の中身や考える力は、中途半端にしかつかず、どちらの言語でも十分な力となっていないそうです。
これと同じことが、軽・中度難聴児にも起こっています。
ぺらぺらしゃべっているのに、言語力、思考力が育っていない、言葉の根っこが浅い子どもたちがいます。親や教師は話していることに安心して、言語力の大きな欠落に気づかず、学年が上がってからこれは大変だと思っても、なかなか元に戻っての言語獲得の再学習はできないというケースです。

これは、これから増えてくる人工内耳のお子さんにも、同じ問題が起こりうると思っています。
軽・中度難聴児がたぶん一生を通じて抱える問題は、コミュニケーションの困難さだと思います。
聞こえない、聾者の場合、確かに聞こえる人と対したときにはコミュニケーションに困難でしょうが、手話を使う聾者同士では困らないわけです。
しかし、その生活のすべてを聞こえる社会で過ごす手話を知らない難聴者は、どの場にいてもコミュニケーションの不全感からは逃れらないのではないかと思います。
聞こえる集団の中での孤立感を、息子は透明なガラスのカプセルに入れられて、周りを見ている感じと言っていました。

 <成人難聴者のHPから>

そうした難聴者の聞こえ方、不自由さ、感じ方などを、今はインターネットのさまざまなサイトから知ることができます。
成人難聴者が自分で管理しているHPがたくさんあります。下のHPはその中の一つです。

 • 静かの森  http://home.att.ne.jp/grape/take3/

成人難聴者のHPには、世間一般の聞こえないというイメージ=聾者や手話だけではない、聞こえにくい難聴者としての思いや主張、聞こえているのに聞きとれない難しさが書かれています。 
聾の人たちが今さかんに言っているデフ・プライド(ろう者としての誇り)に対する難聴者プライドは、はたして生まれるのでしょうか?
私にもどうなっていくかわかりませんが、これからの動きを見ていきたいと思っています。

 <聞こえにくさは厄介なもの?>

手話を知らない難聴者に情報保障をするのは難しいと思った体験があります。
補聴器をつけたり、つけなかったりする程度の難聴の方でしたが、息子の難聴学級時代の同じ保護者でした。
保護者会に出てくるときも、なにも情報保障をつけず、「難聴児の親同士なのだから私にわかるように話せるはず」と言われても、それはなかなか難しかったのです。
ゆっくりはっきりと話すように最初は気遣っていても、10人前後の親や教師で話し合っているうちつい話に夢中になり、早口になり、横を向いてということになってしまいました。
保護者会には聾のお母さんのために手話通訳がついてきたりしていたのですが、手話はまったくわからず、覚える気持ちもない方でした。
ノートテイクという制度があるので、一度つけてみたらとすすめ、その手配をしましたが、ついたノートテイクの内容に満足されないのです。
全部書いてくれるわけではない、時には書き間違えることもある、聞こえている声とずれて書かれるとかえってわかりにくい、ノートテイクは私には必要ないと言われてしまいました。
ある程度聞こえる方には、手書きの文字情報には限界があるなと思いました。
パソコン要約筆記なら、話し言葉の約6,7割を文字化することができます。
それでも、話される言葉の全部ではないし、また文字での情報伝達では、伝わりにくいニュアンスや感情もあります。
手話もノートテイクもパソコン要約筆記も、いろいろなツールを場に応じて使いこなせる難聴者になったほうが便利かなと思っています。

難聴者の方が言われた言葉や、難聴者について言われていることで印象的な言葉がいくつかあります。ある難聴者ファミリーの父親が、自分の子どもに話した言葉ですが、「全部わかろうとしなくていい、いい加減でいいんだ。すべてわかろうとすると疲れるばかりだ」と教えたそうです。
「まあ、いいか」「わかったふり、聞こえたふり」「適当な返事をする」。
聞こえる人間からしたら、どうしてきちんと聞き返したり、確認したりして、責任のある態度をとらないのと思うかもしれませんが、聞こえる社会の中で生きていく難聴者が、すべてきちんと聞き取り、確実に理解し行動していくのは至難のわざ。
自らを守るために身につけたこうした処世術を一概に非難はできない。
我が子にも小さいときはきちんとわかりなさい、何度でも聞き直しなさいと言ってきたが、今はそうとばかりは言えないと思っています。
難聴者のそうせざるを得なかった今までの生活や教育環境を考えるべきではないかと思います。

 <これからの軽・中度の子どもたちはどうであってほしいか>

最後に、これからの軽中度の子どもたちはどうであってほしいかを、お話します。
これは思春期の真っ最中でいろいろな悩みを抱えている我が子に対して思うことでもあります。
聞こえない世界を、もっとよく知ってほしい(親は今まで聞こえる世界を我が子に伝えてばかりいました。もちろん聞こえる世界を伝える役目も大事ですが、聞こえない世界を伝える道筋もどこかでつけておくべきだと思います)そして、聞こえる世界と聞こえない世界の両方を知る者として、それを誇りにしてほしい。
そうした誇りを持てるような教育をしてほしいと思います。
それに関してある高校男子生徒の『俺の場合』という主張を紹介します。

『俺の場合』

「俺くらいの聴力の人は(良耳聴力90dB)、聞こえない事を表現するのには限界があり、話しを全て理解するのにも限界があると思う。俺の聴力は比較的軽い方です。発音もきれいと言われます。
1体1でなら、声を聞き、話すこともできるけど、集団の中ではそれができない。しかし、聴力が軽いために、他の健聴の人は、俺が聞こえると勘違いする。その勘違いを正すために色々なことをやりました。「俺は聞こえない」と言っても、1対1で話せるのだから、と信じてもらえない。
筆談を頼んでも、「聞こえるんだから」と、とり合ってもらえない。
中学生の時に全校生徒の前でその事について作文を書いて発表したけど、「軽いくせに大げさなこと、言わないで」って言われたまま効果なかった。
要するに、俺は、聞こえる、聞こえないと二つにわけた時、自分はそのどちらでもない、はざまの位置に立たされているんだな、と思った。
そのことを、日系アメリカ人に例えると分かりやすいかも知れないと思う。
誰かに「どちらが、あなたにとって母国か」と尋ねられたら、きっと戸惑うはずです。
それと同じように、俺は、誰かから、「聞こえないのか、聞こえるのか、どっちなんだ」と聞かれたら、答えられません。難聴の重い人は、意思表示がしやすいと思うし、自分の立場がはっきりしていると思う。その方がかえって情報が得やすいはずです。
しかし、こういう人もいるでしょう。「割り切っちゃえば、いいじゃん。」俺が考えるに、割り切るということは、"聞こえるか、聞こえないか、どちらかをはっきりさせる"という事でなく、双方のどちらかに偏ってしまう事だ、と思うんです。
俺の聾の友だちに、"自分は聞こえる"と言い張っている人がいます。
でも、その人は、情報を求める事を半ば、諦めています。
俺は、そういう立場の人は、中途半端だと思うから、割り切りたくないんです。
はっきりと、自分は中立している人間だと、自覚をもって生活したいんです。」 

このようなことを考えている高校生をうまく伸ばしていってくれる教育の場があるといいなと思っています。 これからは新生児聴覚スクリーニングなどで早期に発見される軽中度のお子さんも、福祉的な支えが得られるようになってほしいと思います。
軽度だとはいえ補聴器が必要な子には、教育的見地からなんらかの補助がほしいです。
また手話を親子で学ぶ場も必要だと思います。
子どもを早く手話に触れさせたいと思っても、手話講習会では子ども連れは断られてしまいます。
教育の場にも一人一人の力を十分に伸ばせるように十分な体制がほしい。
聾学校で学びたいと思う中等度の子がいたら、その子のいろいろな力を十分に伸ばしてあげられる教育であってほしいです。
人格形成の上で、あまりにも負の面を負いすぎないように、それでいて学習面でもきちんと保障されること、そのような教育の場を軽・中度の子どもたちにぜひぜひ用意してほしいと願っています。

以上、話があちこちに行きましたが、最後まで聞いていただき、ありがとうございました。