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『特別支援教育と私』武田鉄矢氏へのインタビューから

 古い資料を整理していたら、『特別支援教育』(2013)という雑誌に掲載された武田鉄矢氏(俳優)のインタビュー記事がありました。武田鉄矢氏は、福岡教育大学聾教育課程の卒業生(中退)。その頃作られたのが、あの名曲「贈る言葉」。「3年B組金八先生」の主題歌で、それをきっかけに卒業ソングの定番としてよく歌われた歌。しかしもともとは武田鉄矢氏が好きだった女性にフラれたときに作った歌ですね。それはおいといて、今回はそのインタビュー記事の全文を紹介します。以下、転載します。

 

 

「今号では学生時代に聴覚障害教育を学ばれ、その後ご自身の出演された作品でも障害について扱われたことがある武田鉄矢さんにお話をうかがいました。

─なぜ、福岡教育大学の聾学校教員養成課程に入学されたのでしょうか?

 

他の課程は競争率が高かったということ もありますが、端っこが好きだったからです。端っこという言い方は変かもしれませんが、人間には中心にいることが好きな人と、ボーダーライン上が似合っている人がいるのではないでしょうか。私は聾学校教員養成課程の方が教育全体を見渡せるような気がしました。同級生がわずか一二人ほどの小さな集団でしたが、小学校国語課程、中学校英語課程といった大きな集団ではないところに身を置くことで教育というものの本質が見えるのではないかと思ったのです。そこでは本当によい勉強をすることができました。

 また、福岡県には、肢体不自由教育では当時から名前が知られた、しいのみ学園の曻地三郎先生がいらっしゃいます。今もお元気ですが、そういう方がいたので、福岡教育大学は障害児教育にプライドをもっていました。そのようなこともきっかけになったのだと思います。

 

教育実習はどこに行かれたのですか。

 

 大学三年のときは附属小学校、四年のときには福岡聾学校(現在の福岡聴覚特別支援学校)でした。当時の福岡聾学校は口話による教育が中心で読唇と発音指導で授業を行っていました。私は小学部二年生の学級に入りました。正直言って、授業は手も足も出ませんでした。必死になって、子どもの注意を引き付け指導したのですが、うまくいきませんでした。「ニワトリの鳴き声」という授業をすることになり「ニワトリはコケコッコー、ひよこはピヨピヨと鳴きます」という教材を扱いました。「具体的なイメージをどのようにもたせるのかがあなたの腕の見せどころです」と担当の指導教員に言われたので、ニワトリとひよこの格好をして羽ばたいてみましたが、子どもから答えは出てこなくて、授業が終わった後は落ち込んでしまいました。

 

─当時の聾学校の先生はどのような指導をされていましたか。

 

 先生たちは、皆、熱心で性根がすわっていました。「夢や憧れだけで教育を語ってはいけない、親は先にいなくなるのだから子どもが自分一人で生きていくことができるようにならなければいけない」という考 えをもって厳しく指導に当たっていました。

 ただし、単に厳しいだけではなく、夏休みには自分の家に子どもを順番に呼び、勉強や発音の練習を通して力を付け、保護者からは感謝されていました。子どものことを大切に考えていたのだと思います。

 

─原作、脚本、主演をされた映画「刑事物語」では、聴覚に障害がある女性の、発音練習の場面や手話のシーンが描かれていました。教育実習のときの経験があったからですか。

 

 この映画はかわいそうな身の上の女性に恋をした刑事の話でした。なぜ、この映画をつくったのかというと、心のどこかに「聾学校教員養成課程の友達はみんな障害児教育の道に進んでいったのに、俺は聾学校の教壇からステージ(芸能界)に逃げた。だから何らかの形で聴覚障害に関わりたい」という気持ちがあったからだと思います。このことは、自分が背負って生きていかねばならないことでしょうね。そのような思いがこの映画をつくるきっかけとなりました。

 

─特別支援教育の制度が始まる少し前のドラマ「三年B組金八先生」でも、聴覚障害、知的障害、学習障害等を扱っていましたね。

 

 「特別支援教育」は学校のドラマをつくるときに、避けて通ることができない視点です。発達障害の子はどの学級にもいます。 支援が必要な子どもを話題にすることなしに学校の話をすることは現実的ではありません。

 そういう子どもたちをドラマの中で扱うとき、教育実習をした聾学校の教壇を思い出しました。教育実習のときには未熟で指導ができなかったことをやり直せるような気がしたのです。

 支援が必要な子どもたちに対する芝居は、昔、聾学校でお世話になった先生のことを思い出しながら演じました。若い方でしたが、厳しくて、りりしくて、誰かに感謝されることがなくても、黙って自分の職務を貫く人でした。聾学校でそのような先生に知り合ったことがドラマの演技につながりました。

 

─今、学校では全ての先生が協力して支援が必要な子どもの指導に当たる特別支援教育が浸透しつつあります。それをドラマの中で率先して取り組んでいただいているようでうれしく思います。

 

金八先生はなぜこんなに好かれたのか? と思うことがあります。専門家からは、理想を描きすぎるなどと言われましたが、いろいろな課題を抱えた生徒が熱心に見てくれていたことも事実です。生徒はよい先生というものがわかっているのでしょうね。

 よい先生は必ず子どもと目を合わせます。「おまえのことを見ているぞ」というような感覚とでも言ったらよいのでしょうか。

 教育をさらによいものにするためには、制度を整える必要があります。しかし、教育はシステムを変えるだけではよくなっていきません。金八先生が勤務していた「桜中学校」では、問題のある生徒が現れると、先生方が熱心にミーティングを始めました。

 番組を見ていた生徒が「俺たちのことをこんなに熱心に話しているのかと思うと本当に申し訳ない」と言っていたという話を聞いたことがあります。目の前の子どもを教師が真剣に支えることや、細やかに子どもを「見ていく」ことが、教育にとっての基本だと思います。

 

─最後に、特別支援教育に携わる先生方に、メッセージをお願いします。

 

特別な教育的支援が必要な子どもの指導 に当たられている先生のご苦労は多かろうと思います。私は日本の特別支援教育は決して暗い方には向かっていないと思っています。一九七〇年代に障害児教育の道を一瞬だけでも歩いた人間にとっては、そのことが実感としてわかります。特別支援教育は希望に向かって進んでいるということを信じて、子どもたちのためにがんばってください。」(『特別支援教育NO502013より転載』)

 

以上です。1970年代ですから聾学校は聴覚口話法真っ盛りの時です。聾教育ひとすじという、厳しいけれど熱心な先生も多かった時代です。上記のインタビュー記事の中で、武田鉄矢氏もそのことに触れています。教育に携わる教師は、まずなんといっても大事なのは、熱意と誠意。子どものために一生懸命になることです。ただ、その一生懸命さがどういう方向を向いているかを知ることも大事なことです。この雑誌は文科省が監修している雑誌なので、それについては触れていませんが、1970年代という時代は、「きこえない子(人)は、きこえる人を目標にして追いつくようがんばらなければならない」という考え方が当たり前と思われていた時代であったのも確かです。そのために、手話や聾者は差別され、手話は言語ではないと教えられ(大学の先生たちまでもそう教えていた)、子どもが手話を使うと厳しい罰を受けるといった時代であったことも忘れてはならないと思います。もしかして、武田鉄矢氏が聾教育への道に進まなかったのは、熱心だけれどどこか違和感、を感じていたのかもしれません。

┃難聴児支援教材研究会
 代表 木島照夫

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