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 手話の否定とか聾学校の否定とか、おかしくないですか?

 最近、一部の耳鼻科医によって、手話を否定したり、聾学校の存在を否定するかのような発言が相次いでいます。このまま見過ごすわけにはいかないので、今回は、そのどこがおかしいのか考えてみたいと思います。

高木氏のPP資料より表紙.pptx.jpgのサムネール画像


〇手話は言語ではない?

右のファイルは、S県のT医師のパワポ資料の一部です。これは厚生労働省HPに掲載されているものです。厚労省はこの考えを認めているのでしょうか?

T氏は次のように述べています。

 

高木氏のPP資料より①.jpg「①音声言語の獲得は生来、人間の発達にプログラムされたものであり、②単なるコミュニケーション手段と言うだけでなく 学習、認知・判断、抽象概念の構築に不可欠のものであり、③社会的情動の根源をなすものである。④それ故、高度聴覚障害があったとしても高性能な補聴器、人工内耳という機器の恩恵で音声言語獲得が劇的に容易になった現在、敢えてそれらの機器を排除して手話を選択する理由はないように思える。」(丸数字、傍線は筆者)


 

 タイトルは「音声言語」となっていますが、この定義的な説明の冒頭部分(①)は、言語を生み出す本能が人間に備わっていると考えたチョムスキーの理論を援用したものでしょうから、ここは「言語の獲得は生来、人間の発達にプログラムされたものであり」と言い換えができると思います(もし、ここでいう「言語」に手話が含まれないというなら、手話が言語ではないという立証をすべきです)。

また、②の部分は、いわゆる生活言語としてだけでなく、思考のための言語である学習言語の「構築に不可欠」ということで、これは言語としての重要な役割ですから異論ありません。③の「社会的情動」とは、「社会情動的スキル」とか「非認知的能力」とも呼ばれ、これまで知識の獲得や課題の発見・解決といった認知能力に対して、最近注目されるようになった「目標を達成する力」「他者と協調する力」「情動を制御する力」などから構成されている能力と考えられています(OECD2015)。こうした非認知的な能力も言語と密接に結びついていると思われますからとくに異論はありません。

問題は④の部分です。「それ故、・・・敢えてそれらの機器を排除して手話を選択する理由はないように思える。」とT氏はつぶやいています。あれ? その前の言語習得の意義について述べたことが、なぜ、補聴器・人工内耳を排除する手話など要りません、という結論になるの? 論理的におかしくないですか? 

筋道立てて考えるなら、①手話は言語である。⇒言語である手話は音声言語同様、当然②③の要件も満たしている。⇒④「それ故、音声言語を選択するのも手話を選択するのも、どちらでも可である。」となるのではないでしょうか? そうなっていないのは、①の「音声言語は・・」という部分がまさに手話を排除した「音声言語」だけが言語としての要件を満たしている、とT氏は考えているからでしょう。もっとはっきり言えば「手話は言語ではない」と否定しているから出てくる結論です。さらに、手話の選択は、補聴器や人工内耳の排除と勝手に決めつけてもいます。

T氏は、「言語でもなく、音声言語を否定する手話」か「言語たる要件を備えた音声言語」か、という二項対立の図式を意図的に作り、その上で、「言語かどうかもわからへん、あの手話ってなんやねん。補聴器や人工内耳あるんやし、要らんやろ。」と言いたいのでしょうか。


〇手話は日本に存在する少数言語のひとつ

では、手話は言語ではないのでしょうか? これまでの長い間、日本でもそう思われていました(聾学校ではもちろん、大学の研究者ですら研究もしていないのにそう言っていた時代が確かにありました)。しかし、アメリカのストーキー(Stokoe1960)によって、手話は「二重分節性」(=文は、意味を持つ最小の要素である形態素(=単語)をもち、それらの形態素はさらに音素に分けられるという特徴)をもつ言語であることが世界で最初に証明されました。以来、わが国でも日本手話に関する研究が積み重ねられ、21世紀になった今、「手話が言語ではない」と立証することは逆に困難でしょう。また、障害者基本法第3条(2011)には「言語(手話を含む)」とあり、2013年にわが国が批准した障害者権利条約・第二条には「言語とは、音声言語及び手話その他の形態の非音声言語をいう」と、手話が言語であることが書かれています。

にもかかわらず、「音声言語が獲得できるんだから、手話など必要ないでしょ」というT氏の意見は、聴者によって長い年月に渡り否定され続けた聾者と、彼らにとってかけがえのない言語である手話の歴史への深い思いや反省、少数言語に対するリスペクトはどこにも感じられません。手話はきこえない子・人たちを支えるれっきとした言語であり、きこえない人たちの誇りであり、アイデンティティそのものなのだと思います。音声言語あるんだから手話要らないだろ、などという権利はどこにもないはずです。

 

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〇手話も人工内耳も、という立場もある

またもう一つ付け加えるなら、手話の選択イコール補聴器や人工内耳の排除でもありません。この点も勝手に決めつけるべきではありません。手話を第一言語として獲得し、補聴器による聴覚活用を並行しつつ、2~3歳で人工内耳を装用する子どもは決して少なくありません。人工内耳を装用した当事者や保護者によって書かれた『手話で育つ豊かな世界』(全国早期支援研究協議会,2020)や『ようこそ、聞こえない赤ちゃん』(久留米聴覚特別支援学校,2021)などには、こうした当事者や保護者によって「手話も人工内耳も」という立場から沢山の手記が書かれています。ぜひ、こうした当

久留米三部作.jpg

事者たちの意見にも心を寄せてほしいものです。

 

〇人工内耳を1歳未満で埋め込まないと言語の力はつかない?

 右グラフの中のGlobal language という検査がどのような内容で構成されているのかよくわかりませんが、languageと言っているので、語彙や文法なども含まれているのではないかと

高木氏のPP資料より②.pptx.jpg

推察されます。この結果からT氏は「1歳以下の手術がよい。2,3歳では健常者に追いつけない」と述べています。同じ検査で比較できないのでここでは、補聴器や人工内耳と関係なく、聾学校乳幼児相談在籍の頃から手話を併用して育ってきた子どもたちの就学以降Reading test 結果を掲載しておきます(右下グラフ)。また、小6時点で実施される文科省全国学力テストの結果を、それぞれに年度において乳相修了児の平均得点と全国平均との差のみ以下に掲げておきます。

読書学年乳相修了児.pptx.jpg

(児童数は3年間で14名。+は全国平均より何点高いかを示しています)。

  ○国語:①2017年+5.9点  ②2018年+2.5点  ③2019年+8.0

  ●算数:①同上 +5.4点  ②2018年+8.4点  ③2019年+6.0

  言語習得においてとくに大切なことは、抽象的な思考を必要とする学習言語を構築していく時期としての小学校高学年以降ですから、この段階での読みの力(Reading test)や学力(全国学力調査)の到達度は重要な指標となります。このような視点から見た時、手話で育った子どもたちの結果は、読みの力でも学力でも「健常者に追いついている」ことがわかります。しかも、たまたまですが、小6年14名の学力テスト結果には人工内耳装用児が一人も含まれていません。つまり、人工内耳をしなくても、学力は十分に「健常者に追いついている」ということがこの結果からわかります。

 

〇聾学校より通常学校の方がよい?

高木氏のPP資料より③.pptx.jpg

また、T氏は、パワポ資料の最後に、聾学校ではなく通常学校に進むことが目標だとしています。なぜ、聾学校に進むことは目標にならないのでしょうか? これについては、T氏とは別の耳鼻科医、N県のK氏の、ある研究会での講演(2020)から引用してみます。K氏は自分が関わった202人のきこえない子のうち約7割にあたる144名が通常学校に通っているとして「通常学校進学率71」とパワーポイント資料で誇らしげに紹介しています。この「通常学校進学率」という言い方の中に、明らかに聾学校が下で通常学校が上という偏差値的な思考が潜んでいることが読み取れます。耳鼻科医の中には学校にランクをつけて聾学校は下、通常学校が上という人たちが確かにいます。私自身も何度かこういう医師たちに出会いました。これも明らかにおかしいのではないでしょうか? 学校に上下の差などありません。私が知るきこえない子どもたちや保護者の多くは、聴力や人工内耳の有無に関わらず聾学校を選択してきました。年長児であれば自分から聾学校を選択する子も少なくありません。

 手話という言語を駆使し、なんでも自由に通じ合える仲間がいて、先生や友達の発言もすべて見てわかる授業の楽しさ、このような良さが聾学校にはあります。そのような学びの場を選択する子どももいるのです。

また、このような、手話を幼少期よりしっかりと使っている聾学校では、「社会的情動」の根底にある自己肯定感をもった子どもも多く、結果として認知能力もよく伸びています。その結果として日本語力・学力も身につけ、最終的に"インテグレーションしなければならない聾学校高等部卒業時"に、直近5年間の平均で57.9%の子どもたちが大学に進んでいます(2016202022/38名)。T氏やK氏はこれをどのように考えるのでしょうか? 子どもにはそれぞれ個性もあり自分の考えもあります。家庭や地域の事情もあります。聾学校か通常学校かは上か下かではなく、それぞれに存在の意味があるのです。手話という母語獲得の上にしっかりとした日本語を身につけ、きこえない自分に自信と誇りを育てる学校、それが聾学校です。それぞれの子どもや家庭の条件なども含め、その子が望むその子に合った学校に行くことが進路選択においては大事なことではないでしょうか。

 

〇「ろうを否定する思想にNO!」

最後に、新生児聴覚検査が始まった約20年前の朝日新聞記事(1999,8,28)の「・・厚生省(当時は厚生省)は、すべての赤ちゃんが検査を受けて早期に訓練すれば、ろう学校に通う3割から5割の子供は普通学級に通えるようになるとみている。」という記述に対し、聾者の立場から反論した米内山明宏氏の朝日新聞論壇の記事(1999,10,8)から一部を紹介しておきたいと思います。このような意見が当事者から出されることは本当に素晴らしいことだと思います。

 

「・・ここで、厚生省担当者、検査装置の開発者、そしてこの記事を書いた記者に共通していると感じたのは「耳が聞こえない子どもは訓練をして少しでも聞こえるようになった方がいい」「ろう学校に通うより普通学級に通う方が絶対にいい」さらに言えば「耳の聞こえない人生より耳の聞こえる人生の方が絶対にいい」と信じて疑わない態度です。私たちろう者は耳が聞こえない者という以上に、手話という言語を母語として手話を共有する仲間と共に生きる者たちです。社会的な抑圧にさらされることも多いですが、仲間と手話で語り合う時、私たちはどこにもいる、自らの人生を楽しむ人間たちの一人です。・・本当に「耳が聞こえない子どもは訓練をして少しでも聞こえるようになった方がいい」のでしょうか?そんなことは当たり前だと思われるかもしれません。けれどそのような考え方がどれだけろうの子どもたちを苦しめてきたか。子どもらしく生きる時間を奪い、「もう少しがんばれば」という思いが結果として学力を奪い、「がんばってもきこえるようにはならなかった」子どもたちから人間としての誇りや自信を奪ってきたのです。私はろう者として聴覚障害を早期に発見するという今回の試みに反対するわけではありません。ろうの子どもが手話という自然に習得できる言語に早くから触れ、適切な教育環境で成長できるためにも、むしろ歓迎すべきことです。しかし、その背後にある「ろうを否定する」思想に対しては、はっきりと「NO」と言いたいと思います。そして、ろうの子どもの将来について考える際には、私たちろう者の声に耳を傾けて下さることを切に希望します。」

 このような当事者の思いを私たち聴者はもっと大事にし、耳を傾けたいものだと思います。

 

 

 

┃難聴児支援教材研究会
 代表 木島照夫

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