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国語教科書

昭和に子ども時代を過ごした私にとって8月といえば、「広島・長崎に原爆が投下された月」であり、太平洋戦争が終結した「終戦の夏」です。

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太平洋戦争が終わってすでに80年近い歳月が流れていますが、それでも戦争中の出来事を扱った文学作品が読み継がれ、そうした作品の中から国語教科書にもいくつかの作品が採用されています。例えば「ちいちゃんのかげおくり」(3年)、「ひとつの花」(4年)、「ヒロシマのうた」(6年)などがそうです。ここで紹介する『大人になれなかった弟たちに』(中1)もそのひとつですが、ここでは、作品の全体的な鑑賞ではなく、文法的な視点から作品の中に流れる時間軸について考えてみたいと思います。因みに、作者の米倉斉加年氏(俳優)は2014年に亡くなっています。作品の冒頭の部分は、以下です。

 

「ぼくの父は戦争に行っていました。太平洋戦争の真っ最中です。

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空襲といって、アメリカのB29という飛行機が毎日のように日本に爆弾を落としに来ました。夜もおちおち寝ていられません。毎晩、防空壕という地下室の中で寝ました。

地下室といっても、自分たちが掘った穴ですから、小さな小さな部屋です。僕のうちでは、畳を上げて床の下に穴を掘りました。母と僕とで掘ったのです。父は戦争に行って留守なので、家族は、僕と母と祖母と妹と弟の五人です。五人が座ったらそれでいっぱいの穴です。・・」

 

 以上が冒頭の部分です。日本語を自然獲得している聴者には違和感は感じないでしょうが、この文章を注意して読んでみると、いわゆる過去形(タ形)と現在形(ル形)が混在し、ほぼ交互に使われていることがわかります。なぜ、このような使い方がなされているのでしょうか? その違いを明確にするために、すべて過去形に書き換えてみます。

「僕の父は戦争に行っていました。太平洋戦争の真っ最中でした。

過去形と現在形の使い方(2).jpg

空襲といって、アメリカのB29という飛行機が毎日のように日本に爆弾を落としに来ました。夜もおちおち寝ていられませんでした。毎晩、防空壕という地下室の中で寝ました。

地下室といっても、自分たちが掘った穴ですから、小さな小さな部屋でした。僕のうちでは、畳を上げて床の下に穴を掘りました。母と僕とで掘ったのでした。父は戦争に行って留守なので、家族は、僕と母と祖母と妹と弟の五人でした。五人が座ったらそれでいっぱいの穴でした。・・」


〇過去形(タ形)と現在形(ル形)の使い方のルール 

過去形が続くと、一つ一つの文が、過去の事実ではあるけれど、淡々とした文になり、どこかそれぞれのことを別々に思い出しているような雰囲気の文になります。しかし、過去形、現在形という形で表すと、それぞれの思い出がひとつひとつ関連を持ち、全体の文章の中の一部でありながら、ひとつながりのことであることがはっきりします。また、現在形を使うことで文がいきいきとして臨場感とか躍動感も出てきます。しかし、日本語の文法として、過去のことを述べるときに、このような現在形(ル形)を用いるのは「あり」なのでしょうか?。

・・と言われると途端に困るのが、理屈ではなく日本語を自然獲得してしまっている聴者なのですが、これは文法的にもOKなのです。日本語の動詞には種類が2つあり、そのうちの一つは動作や変化ををあらわす動詞です。こうした動詞は過去を表す時は「タ形」を使います。この文章の中の「戦争に行っていました」「爆弾を落としに来ました」「地下室の中で寝ました」「穴を掘りました」などです。

ところが、もう一つの動詞は、「ある」「いる」「できる」といった動きのない、状態をあらわす動詞で、これらの、状態をあらわす動詞や「~ている」であらわす動詞、形容詞、文末に「~だ」「~です」を用いる名詞、形容動詞(なにで名詞)などは、はじめから過去のことであることがわかっているときには、過去形にしないで使うことができる、というのが文法ルールなのです。この文章の中では「太平洋戦争の真っ最中です」「おちおち寝ていられません」「部屋です」「・・弟の五人です」「いっぱいの穴です」などです。これらは状態が変化・展開しないでとどまっているので、過去形にしないで使うことができるわけです。そして、そのような使い方をすることで、文章が活き活きとし、今、まさにその事態が目の前で起こっているかのような印象を与える文になっているわけです。

 とはいっても、この文章を読んで、イメージが浮かび、臨場感に浸れるのは、自然言語として文法を空気のように無意識に使いこなせる聴者だからであって、「第二言語」として日本語を学ぶきこえない子にとってはなかなか難しいことです。そのため、きこえない子どもに文法指導が必要と言われても「はあ?そうですか?そんなの必要ですか?」となり、なかなかその必要性が伝わらないということが起こります。その人にとって文法は

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「空気」なので、あまりに当たり前すぎて、きこえない子の「言語感覚」と自分の「言語感覚」が違うということの意味が理解できないのです。国語の教科書は、聴者の言語感覚を前提に作成されています。とくに難しいのは「鑑賞」を伴う、このような文学作品をどう読み取るかで、きこえない子がきこえる子と同様の言語感覚で読めるわけではないということを前提にしておかなければなりません。

 では、どこまで聴こえない子は作品を理解し読解できればよいのか、それは指導する側の教材の解釈にかかっているわけですが、そんな指導書もないし、子どもの実態も毎年毎年違うわけですし、とりわけ動詞の活用も助詞も身に付いていない子どもたちを前にする

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と、そんなことよりも社会に出てきちんと伝え合える日本語の読み書きの上達のほうが先だろうと思ったりします。「準ずる教育」ってなんなのだろう?とその矛盾に苦しんでいるのが聴覚障害教育の現状です。

 因みに私個人は、まず、教科書の文章を自分の力で読めるようになるために、語彙力や文法力をしっかりつけることが優先されるべきと考えています。国語をやるなら「説明文」と「言語事項」を優先し、国語の前に自立活動としての「言語」をしっかりやったほうが、将来、社会に出ていく子どもたちには必要なことだと思っています。社会に出たきこえない人たちの現状をきくと(添付ファイル参照)ますますそう感じます。

 日本語の特徴として、名詞を詳しく説明するとき、名詞の前に修飾フレーズをもってきます。しかし、その意味を明示する仕組みはありません。ここは英語と違うところで、英語の場合はその名詞の後ろに関係代名詞をもってきて、その名詞を説明するしくみになっています。

 

名詞修飾の教え方①.jpgのサムネール画像

 例えば、右の図のような国語教科書に出てくる「スイミー」の中には次のような文があります。「にじ色の ゼリーのような くらげ。」 この文で、「にじ色の」は「ゼリー」にかかっていて「にじ色のゼリー」なのか、「くらげ」にかかっていて「にじ色のくらげ」なのかよくわかりません。このようにその文だけをみても判断ができないことがあるのです。従って前後の文脈からどちらの意味なのかを判断するしかないわけですが、この「スイミー」ではどちらともとれるのです。このようなどちらかわからないというかかりうけの文が「スイミー」の中には3か所出てきます、もし、あらかじめどちらかにはっきりとさせるのであれば、そうした誤解を避けるために読点(、)を入れるしかありませんが、訳者(谷川俊太郎)はそれも敢えてしなかったわけですから、どちらにとってもいいようにあえてそうしなかったのかもしれません(ちなみに原文は「にじ色のゼリー」のようですが。)

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このような日本語の難しさは、きこえない子にとってはやっかいなもので、文をどう解釈してよいかわからない子がけっこういます。右のファイルはJcossという文法力を調べる検査の中の問題です。問題文「四角は 青い 星形の 中にあります」という文が4つの図のどれなのかを答える問題(「述部修飾」)ですが、小学部の児童の半分近くが②③と答えています。これらの子は、「四角は 青い」「星がたの 中にあります」と文を途中で切ってしまったために間違えたわけです(後半部分は「星形が 中にある」と考えた児童が6名、「星形の中に ある」と考

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えた児童が3名いますが、これは助詞がわからないために生じた誤り。正解は後者)。この文は、以下の2つのことを指導することが必要です。一つは「文の構造の基本的なルールを教えること」、もう一つは「名詞の修飾のしくみを教えること」です。

そこで、一つ目の「文の基本的なルールを教える」ことですが、ここではJcossの「犬は 茶色い 馬を 追いかけています」という

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文を使って例を示してみます(右上図)。品詞カードを使って文の構造を教えるときに、このような構文図を使います。ここでは詳細は省略しますが、この問題文を「犬は 茶色い。馬をおいかけています。」と「茶色い」で区切って解釈した子どもは、本来ひとつの文であるのに、この図のように二つの文に区切ってしまったことになります。これは「一つの文には述部は一つ」(=一つの文は最後に一つだけ句点(〇)がある)という基本ルールに反しているので、「茶色い」のあとに「〇」はあり得ないこと、では、「茶色い」はどこにもっていくのかを考えさせます。するとこの一続きの文では馬の前にしかこれないことがわかります。そこで「茶色い」を「馬」の前に動かします。それが二つ目の図です。

 

名詞修飾の教え方⑤.pptx.jpg

 ここでは名詞修飾の作り方を指導するためのゲームを紹介します。まず、テーマ「たんぽぽ」について思いついた文をそれぞれの児童に出させます。ここでは右のように5つの文が出ました。



名詞修飾の教え方⑥.pptx.jpg名詞修飾の教え方⑦.jpg

       

 文が出たら順番に自分の作った文の述部にある形容詞や動詞を他の文の名詞の前にくっつけます。「タンポポは黄色い」を作った先生は、述部の「黄色い」を「タンポポが風に揺れている」の文の「タンポポ」の前にもっていきました。

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名詞修飾の教え方⑩.pptx.jpgのサムネール画像

 

   次の子どもは「タンポポが 咲いた」の述部「咲いた」を「黄色いタンポポ」の前にもってきました。そうすると「咲いた黄色いタンポポ」となりました。さらにその次の子は、「タンポポは可愛い」の述部「可愛い」をさらに前にもっていき、「可愛い 咲いた 黄色い タンポポ」となりましした。ここで二つ形容詞が続く場合は、前の形容詞は「可愛く」と「~く」になることを形容詞の活用表から確認します。
そしてさらに次の子どもは最初に作った文は「タンポポが 風に 揺れている」でしたが、後ろの「風に
名詞修飾の教え方⑪.jpg
揺れている」を「タンポポ」の前に持ってきます。この時、「風に揺れている 可愛く咲いた 黄色いタンポポ」としてもよいのですが、この子どもは「風に 揺れて」と「て」を接続助詞として文を作りました。このようにして複数の文が一つの文になり、名詞修飾である「大きな名詞」が完成しました。
 
 「大きな名詞」(名詞修飾)を作る指導をしておくと日記の中でも子どもたちは、大きな名詞を使った文を書くようになります。図はそうした日記の例です。

ふきのとうと言えば私が真っ先に思い出すのは春の山菜の天ぷらとしてよく食べたことです。独特の香りと少し苦みがあるところがいいです。

ふきのとうPP①.jpgこのふきのとうを題材にした国語教材(『ふきのとう』,工藤直子作)が、小学校2年上の光村図書の教科書に載っていて、子どもたちは4月に学習するとになっています。本当は3月にやるのが「旬」なのですが、まあそれはやむを得ません。

この「ふきのとう」は、長い冬が終わり、待ちわびていた春を迎える喜びを、ふきのとう、竹の葉っぱ、雪、お日様、春風たちの会話をとおしてユーモラスに描いた作品で、リズム感もあり、とても素晴らしい作

ふきのとうPP2.jpg品です。全文を右のファイルにしてありますので、まずこの作品全体を味わってほしいと思います(作品についての解説を、作者の工藤直子さんが『日本児童文学』,2002に書いておられます。その一部をこの記事の最後に引用しておきます)。そして、読む時に、文法的な観点とくに動詞の活用という点からも作品の特徴に注意を向けていただければと思います。


〇動詞の過去形(タ形)と非過去形(ル形)の使い方

ふきのとうPP3.jpgさて、読んでみてお気づきになった方がいらっしゃるかもしれませんが、それぞれの段落(場面)の最初の文が過去形(タ形)になっており、そのあとに続く文は非過去形(ル形)になっていることです(日本語の時制は過去(「~ました・た」=タ形と、非過去形(現在・未来、「~ます・る」=ル形の二つ)。

第一場面  よが あけました。・・・

第二場面  どこかで、小さなこえが しまし

ふきのとうPP4.jpgた。・・・

第三場面  「ごめんね。と、雪が 言いました。・・・

第四場面  「すまない。」と、竹やぶが 言いました。・・・

第五場面  空の上で、お日さまが わらいました。・・・

ふきのとうPP5.jpg 

 これらの場面を読みながら頭の中に映像を浮かべると、撮影しているカメラが新しい場面ごとに切り替わるような印象を受けます。例えば、第一場面の「夜が明けました。」 朝日が差し込んでくる夜明けの竹やぶという導入場面でタ形が使われています。そして竹の葉同士がささやき合っている場面にカメラの焦点が向き、竹の葉同士の会話(情景描写)がル形で表現されています。

と、そこに突然、どこからか小さな声がして、カメラは今度はその声の主であるふきのとうの方に向きます。その場面の転換にタ形が使われています。そしてふきのとうの情景描写がル形で続きます。

次の第三場面は、雪が登場します。カメラはその雪のほうに視点を向け(タ形)、雪の情景描写(ル形)が続きます。このように、誰かが声を出すたびに、その声を探してカメラは新しい登場人物の方に視点を向け、その新しい登場人物の様子を描きますが、その場面の転換にタ形が使われ、それに続く情景描写でル形が使われるというのが特徴です。

このように、『ふきのとう』という作品は、①タ形動詞が場面の転換をあらわすという文法的性質と、②ル形動詞がその場面の中での情景を描写するのに適しているという、タ形とル形のもつ性質を巧みに使った作品ということができます。

 

〇変化のスピードアップを表現する巧みさ

 今、タ形動詞は場面転換を表し、ル形動詞は情景描写を表すと言いましたが、後半の第五場面と第六場面ではタ形動詞が2回使われています。つまり場面転換が速くなってきていることがわかります。場面転換が速くなるということはだんだんと場面が盛り上がってきたということです。そして、第七場面では、「竹やぶが、ゆれる ゆれる、おどる。雪が、とける とける、水になる。」と、動詞を繰り返すことでさらに勢いが増していることが強調されています。これは「竹やぶが、 ゆれる、おどる。雪が、とける、水になる。」と一度だけの場合と比べてみるとその違いがわかります。

 また、「ふきのとうが、ふんばる、せがのびる。ふかれて、ゆれて、とけて、ふんばって、ーーもっこり。」

前半の文は「ふんばる、せがのびる」ですから動作に切れ目があり、後半の文は動詞のテ形をつないでいくことで、一連のつながった動きが切れ目なく素早く変化していくことが伝わる文になっています。このあたりの動詞の活用の使い方も見事です。

 

〇場面の転換にタ形、情景描写にル形、動作の連続にテ形が使われているそのほかの作品

 

大きなかぶ.jpgこの『ふきのとう』のように、場面転換で「タ形」が使われ、情景描写に「ル形」が使われている作品を探してみると、小1国語の『おおきなかぶ』がそうであることがわかります。例えば第三場面と第四場面は以下のようになっています。

 

(第三場面) おじいさんは、おばあさんをよんできました。(タ形)

かぶをおじいさんがひっぱって、おじいさんをおばあさんがひっぱって、(テ形)

「うんとこしょ、どっこいしょ。」それでも、かぶはぬけません。(ル形)

(第四場面) おばあさんは、まごをよんできました。(タ形)

かぶをおじいさんがひっぱって、おじいさんをおばあさんがひっぱって、おばあさんをまごがひっぱって、(テ形)

「うんとこしょ、どっこいしょ。」やっぱり、かぶはぬけません。(ル形)

 

 

ワークて形.jpg場面転換でタ形を使い、情景描写でル形が使われています。また、テ形をつなぐことによって一連の動作が切れ目なくつながっていることがわかります。

このような作品を味わうには、低学年児童とくに文法的意味を自然習得の難しいきこえない子にとってははり動作化・劇化をすることで、その意味の違いを体感したり視覚化して指導することでしょう。また、動詞活用の違いを自立活動などの時間なども使って取り

ワーク過去・非過去.jpg出して指導することでしょう。そのための教材として『絵でわかる動詞の学習』などが使えると思います。

HPTOPページ>出版案内①斡旋図書>出版案内⑥日本語のワークを参照http://nanchosien.com/publish/cat58/


絵でわかる動詞の学習.jpg






【作者コメント】

「小学校二年生の教科書の最初に『ふきのとう』という話がのっている。かつて箱根の麓の山村にすんでいたころ、実際に見かけた小さなフキノトウのことを書いたものだ。当時私は、農家の空き地を借りて住んでいた。冬から春に移り変わろうかというある日、季節はずれのドカ雪が降った。かなり積もったが、春も間近なので消えるのも早い。しかし竹やぶの中は日陰なので、ところどころまだらに、雪が溶け残り、夜の冷気と日中に暖気で凍ったり、わずかに溶けたりを繰り返し、ザラメをまぶした煎餅のようになっていた。

  ある朝、家を出る用があって竹やぶの小道を通り過ぎた。通り過ぎながら、煎餅のようになった残雪のはしっこが持ち上がっているような気がしたので、なにげなくかがみ込んで雪の下をのぞきこんだ。(おや、こんなところにフキノトウが.........) 雪が、そりかえって持ち上がっているのは、この小さなフキノトウのせいではないのだが、(まるで外に出たくてヨイショ、ヨイショと雪を持ち上げているみたいな)と微笑ましかった。そんな記憶があったので、春の話を書こうとしたとき(そうだ、あのフキノトウをモデルにしよう)と思ったのだ。・・・(略)」(『日本児童文学』,2002


〇場所を表す「に・で・を」の意味

 「宙舞う」「宙舞う」「宙舞う」これらはいずれも意味が違います。ではどのように違うのでしょうか? 

 場所に関わる格助詞にはいくつかの種類(に、で、を、より、から、まで等)がありますが、きこえない子に難しいのは、一文字の格助詞「に、で、を」を、どのようなときに使うのかということでしょう。これらの助詞には以下のような使い方があります。

 (1)場所の「に」

①その場所が行先・到達点をあらわす(行先・目的地の「に」)【例】「風呂入る」

②その場所が存在する所をあらわす(存在の「に」)【例】「風呂ある」

(2)場所の「で」

その場所で行為・動作をすること(場所の「で」)【例】「風呂あそぶ」

(3)場所の「を」

①その場所を通過するとき(通過の「を」)【例】「風呂通る」

②その場所を離れる・出発点をあらわす(出発点の「を」)【例】「風呂出る」

 

助詞手話記号~チャレンジより.pptx.jpg上記の場所に関する助詞の意味を視覚的にわかりやす表したものが「助詞手話記号」です。またこれらの助詞の意味は手話のない「助詞記号」でも表すことができますが、少し抽象的な記号になるので低学年には、「助詞手話記号」を使うほうがわかりやすいです。

このような助詞の違いから「宙 舞う」「宙 舞う」「宙 舞う」を考えると、

・「宙 舞う」⇒宙が「行先・目的地」な

宙に・で・を舞う.pptx.jpgので、ファイルの右端の図のようなイメージになります。

・「宙 舞う」⇒「宙」は舞う「場所」なので一定時間持続してそこ(宙)で舞い続けるという意味になります。

・「宙 舞う」⇒「宙」を比較的短時間の間に通過して行ったということになります。*対象の「を」と考えると「で」に近い動きと考えることも可能です。  


〇教科書の文章を正確に読み取るために小4上国語『白い帽子』から

白いぼうし冒頭.pptx.jpgこうした違いがわかって初めて、教科書に出てくる文の意味を正しく理解し、その情景がイメージできることになります。では、教科書の中の次の文はどのような情景になるでしょうか。光村図書や学校図書の4年上の国語に出てくる『白いぼうし』(あまんきみこ作)から取り出してみます。(  )の中にはどのような助詞が入るでしょうか?(*漢字使用) 

・・・「これは、レモンですか」。堀端(  )乗せたお客の紳士が、話しかけました。

 作品の冒頭の部分です。堀端は「場所」で、その場所でタクシーに乗せるという行為が行われていますから「堀端 乗せたお客の紳士」です。

②・・・信号が青に変わると、たくさんの車が一斉に走り出しました。その大通り(  )曲がって、細い裏通り(  )入った所(  )、紳士は降りていきました。

 タクシーに乗って移動中、大通りに差し掛かり、タクシーは曲がって行きますから、「その大通り 曲がって」。通過の「を」が使われています。 場所の「で」でも間違いとは言えませんが、「で」の場合は、そこで一定時間なにかをしているというイメージが強くなります。ここはタクシーで移動している場面ですから、通過の「を」のほうが場面に合っていると思います。

 次の「細い裏通り(  )入った所(  )紳士は降りていきました。」はどうでしょう?  ここは、「細い裏通り 入った所、紳士は降りて」となっています。前者は、通過点として考えれば「を」もあり得ると思いますが、ここはタクシーの行先・目的地ですから行先の「に」が使われています。また、後者はその場での行為ですから、場所の「で」が使われています。

 

③・・・もんしろちょうです。あわてて帽子をふり回しました。そんな松井さんの目の前(  )ちょうはひらひら高く舞い上がると、並木の緑の向こう(  )見えなくなってしまいました。

白いぼうし1.pptx.jpg

 前者は「目の前 ちょうは・・舞い上がる」もあり得ますが、ここでは「目の前 ・・まい上がる」で、通過の「を」が使われています。「目の前」であれば松井さんの目の前でしばらく舞っていたことになりますが、通過の「を」なので、比較的短時間でその場(=目の前)を通り過ぎたことになります。蝶は常にひらひらと舞い、移動しているのです。そして、「並木の緑の向こう 見えなくなってしまい」ます。ここは行先の「に」です。

 

④・・・そこは、小さな団地の小さな野原でした。白いちょうが、二十も三十も、いえ、もっとたくさん飛んでいました。クローバーが青々と広がり、綿毛と黄色の花の交ざったたんぽぽが、点々の模様になって咲いています。その上(  )踊るように飛んでいるちょうをぼんやりと見ているうち、松井さんには、こんな声がきこえてきました。「よかったね。」「よかったよ。」「よかったね。」「よかったよ。」それは、シャボン玉のはじけるような、小さな小さな声でした。

白いぼうし2.pptx.jpg

 ここで使われているのは「その上、・・飛んでいるちょう」で、通過の「を」です。その上、・・飛んでいるちょう」でもよいのかなとも思いますが、ひらひらと舞い、移動している蝶なので、やはりこの場面も野原の上移動しているという統一された蝶のイメージで描かれているのだろうと思います。

 

〇助詞の意味・用法を身につけることの大切さ

新・日本語チャレンジ表紙.jpgのサムネール画像助詞は使い方で大きく意味を変えてしまう場合もあれば、ここでの使い方のように、微妙に意味が変わる場合もあります。とくに文学作品の中では、微妙な使いわけがなされています。そこまで深く読み取ることは、きこえない子にはかなりハードな作業です。しかし、助詞の使い方を意識的に取り上げ指導することで、その意味の違いを理解させることは可能です。

まず、基本的な助詞の意味・用法をきちんと学習することが先決ですが、きこえる子に準拠した国語の教科書ではそのような指導は行われませんし、扱う時間も設定されてはいません。日本語の基本的な語彙・文法は自然獲得しているということが前提になっているからです。ですから、きこえない子には、まず、助詞などの用法を意図的に取り上げ、しっかりと身につけさせる指導が必要だと思います。上のテキストは日本で唯一の助詞学習用テキストです。CDと併せて購入すると割引になり、たくさんの練習問題やテスト問題をダウンロードできます。(難聴児支援教材研究会発行,1,600円) 

 小1国語教科書の説明文での動詞の使い方をみると、最初に使われる動詞のかたちとして、基本形の「~ます」も使われますが、「~ています」という、表現が多いことに気づかされます。

 

じどうしゃくらべ.pptx.jpg例えば、1国語下「じどう車くらべ」(光村図書)をみると、最初の二頁に使われている6つの文の文末には、「~ています」が4か所、「~てあります」と~「あります」がそれぞれ1か所使われています。どのような意図があるのでしょうか? 

  上記の単元の冒頭の文を以下のようにしてみるとどう印象が変わるでしょうか?

「いろいろな じどう車が、 どうろを はしります それぞれのじどう車は、どんなしごとを しますか?   そのために、どんなつくりに なりますか?

 自動車について一般的なことを言っているだけで、挿絵に描かれている自動車のことを言っているのか、どうもよくわからない文になります。


〇動詞のアスペクト

日本語では、動詞の過去は「タ形(~ました)」で表します。一方、未来や現在はどのように表すのでしょう? 例えば「犬がいる」「本がある」「遠くが見える」「音が聞こえる」といった状態を表す「状態動詞」は、行為の全体でも部分でも変わりはないのでそのまま「ル形(~ます)」で現在を表すことができます。また、未来も表すことができます(「見える・聞こえる」は「見えている。聞こえている」も現在形)。

 その一方で、「ごはんを食べる」「太郎が歩く」「車が走る」といった物や人の動きを表す「動作動詞」は、その動作・行為の全体を表すと同時に、未来をも表しています

例えば「ごはんを 食べます」という文では、ご飯を食べるという行為全体を表す場合もありますし、これからごはんを食べるという未来を表す場合もあります。では、過去の表し方はどうでしょうか? 「ごはんを 食べました」ですね。また、これはその行為が完了したすなわち今食べ終わったというときにも使います。

では、動作動詞の「現在」を表すかたちはどんなかたちでしょうか? 今ちょうど食べている最中が現在ですから「ごはんを 食べています」が現在になります。現在というのは、「」であり、まさに、ある動きが「進行し継続している」状態です。

「~ます」と「~ています」の違い.pptx.jpg 

そこで、「車が走る」を例に考えてみましょう。添付ファイルのように、「車が走る」という一連の動きを時間の経過とともにとらえると以下の文のようになります(これを動詞のアスペクトと言います)

「車が走る」(未来)⇒「車が 走っています(現在)⇒「車が走りました」(完了)

 こうした一連の動き・動作の流れに位置付けて国語教科書の文をもう一度みてみると、なぜ、「~ています」という現在形が使われているかがよくわかります。教科書の挿絵をよくみると、道路に架かった歩道橋のようなところから、カメラを据えて道路の車の動きを観察しているような印象を受けます。小1の児童は、認知発達的にもまだ自分の視点から物事を考えることが多く、自分以外の他者の視点からものごとを考えることは苦手ですから、このような、まるで自分が「今」まさに歩道橋から道路の車の流れを見ているかのような、いわば視点を固定して定点カメラで見ている感じがわかりやすいのです。


〇「~ていく」「~てくる」の登場

このように、小1国語教科書の説明文では、まず「ル形(~ます)」と「~ている」が出現しますが、その次に「~ていく」「~てくる」といった移動や時間経過を伴った表現が登場します。光村図書では、「どうぶつの赤ちゃん」がそれです。この単元では、例えば、「よそへいくときは、おかあさんに 口にくわえて はこんでもらうのです。」という文、「どのようにして、大きくなっていくのでしょう。」という文があります。前者は空間的な移動ですが、後者の「大きくなっていく」は、時間的な推移が含まれた表現で、現在から未来(「~ていく」)に向けた視点での言い方です(過去から現在に向けた視点が「~てくる」)。「どのようにして、大きくなるのでしょう。」という言い方よりも「大きくなっていくのでしょう。」のほうが、時間が徐々に流れていく感じがします。


〇きこえない子に、「~ている」「~ていく・~てくる」をどう教えるか?

 

アスペクトの指導.pptx.jpgこえない子も、聴力の軽い子や人工内耳の子たちは、日常生活の中で音声言語を使って「~ている」や「~ていく」「~てくる」を使う場面は当然ありますが、具体的な生活場面で自分で使えているからといって、自分の経験とは関係なく書かれた教科書の文章の中で理解できるとは限りません。それが生活言語と学習言語の違いです。ですから、生活経験の中で使えている語や文法の力を普遍的な力にするためにも、教科書の中でその使い方を改めてとりあげたり、文法的にとりあげた問題などをするなかで、確かなものにしていくことが必要です。また、聴力が厳しく、
~ていく、~てくるの指導.pptx.jpg「走る。走らない。走った」などの活用はわかるけれど、「走っている」という現在形・進行形をどのようなときに使うか、「茎が伸びてくる」「茎が伸びていく」など時間経過をどのように表現するか、まだ十分わかっていない子どもたちもいます。このような単元の中で動作化や視覚化をしたり、添付ファイルのような問題を解くことを通して考えさせていく必要があるでしょう(右添付ファイル参照)。

『難解語句をどう指導するか?』を再度整理しなおしました。

 

〇手話を使って説明する方法

辞書をひいてそこに書かれていることが理解できるためには一定の思考力と日本語力が必要です。生徒たちはまだ抽象的な思考ができる段階に到達していない、つまり「9歳の壁」を超えることができていないので、自分で調べてもわからないわけです。

 では、どうすればよいのでしょうか? まず、日本語がわからなくても手話を日常的に使っている聾学校の生徒であれば、手話で説明すれば理解できることがかなりあります。

例えば、「配慮」ということばの意味の説明は、儀式のときに手話通訳や字幕等の情報保障があるときとないときのことを想定させ、そのうえで、「問題を解決するためにいろいろな方法をとったり、相手の人に心を配ること」などと手話で説明すれば理解できますし、「配慮」という手話は「思う+世話」で表しますから、その手話を使って説明できるでしょう。同様に「個性」は手話では「個人+性格」で表しますから、その手話を使って生徒一人ひとりの特徴的な性格を考えさせることから「個性」を理解させることができるように思います。

 

 このように日常生活の中での具体的な場面から手話を使ってさまざまな例を出して、語句の意味を説明することができます。これが手話というもう一つの言語をもっている子どもたちのメリットです。かつて聴覚口話法の時代、このような抽象語句も日本語を使って説明しなければならなかったため、生活言語レベルでの日本語もあやしい子どもたちに説明するのは本当に大変でした。これは英語の単語の意味がわからない子に英語で説明しなければならないジレンマと同じです。

私自身、手話を日常的に使っていた聾学校から口話法の聾学校に転勤した時、「これでは『理解』までに時間がかかりすぎる。勉強が遅れるのは当然だ」と、その時思ったのを覚えています。

 

〇ターゲットの語句について分析する方法

 もう一つは、その語句についていろいろな側面から分析して考えさせる方法です。

たとえば「新鮮」ということばに使われている漢字「新」「鮮」という漢字から、生徒が知っている語例えば「新しい」、「鮮やか」(=手話では、「はっきり」または「派手」)などから意味を予想させることができます。また、似たような言葉(類義語・同意語)を探したり、反対の意味の言葉(対義語・反意語)をさがしたりすることでターゲットとする語句の意味を想像することもできます。

 

 さらに、抽象語句を上位概念とする語句には、その下に下位概念として位置づけられるような具体的な例がいくつかあるはずで、それを探します。「新鮮」であれば、朝どり野菜、釣ったばかりの魚、新しく魅力的な服などです。また、「新鮮」の対義語である「陳腐」などの抽象語句にもその下に下位概念としての具体例があるはずです。こうした上位・下位概念からターゲットになっている語句の意味を考えさせ、同時に語彙を広げることも同時にできます。

 

 ついでに言うなら「新鮮」というのは一見名詞のようですが、実は「なにで名詞」(=形容動詞)です。

「なにで名詞」を学習した経験を思い出させることで、その使い方が理解できるでしょう「新鮮」の次には名詞が来るのがルールですから「新鮮野菜」と例文を作れます。「新鮮」には、「動詞」が次に来るのがルールですから、「新鮮感じる」と例文が作れます。「新鮮」には、形容詞やなにで名詞が来るのがルールですから「新鮮さわやかな空気」と例文が作れます。


〇必ず、例文づくり抽象語句の指導.jpg

 意味が理解できたら、上記のように例文を必ず作ります。例文を実際に作ることで、その語句の使い方(運用)を知ることができます。

 以上のことをまとめると右図のようになります。このような図式のノートを作って、そこに言葉を入れていく『ことばノート』を作ってみてはどうでしょうか? 

 

中学の先生から以下のような質問を受けましたので考えてみたいと思います。

 

授業中、国語の教科書に出てきた「新鮮」「個性的」「配慮」などの意味を生徒が分からなくて困った。辞書を引かせても辞書に書いてある意味が分からない。ただ写すだけならできるが、それに意味があるとも思えない。なにかよい方法はないだろうか? 

上のような名詞は事物の名称ではなく抽象名詞ですから、事物名詞と違って目に見ることができません。このような抽象名詞を辞書で調べても、その説明がたいてい抽象的なので調べてもわからないことが多いです。辞書を調べて書かれていることが理解できる認知・言語発達の段階の子どもは、いわゆる『9歳の壁』を超えており、それ以前の具体的な思考の段階の子どもには、具体的な使い方を示すことが必要です。例えば、以下のような例を手話や絵、動作などを使って示すことが必要になります。 

(例)「新鮮」・・・釣ったばかりの魚を刺身にして食べる場面をイメージして。              「この魚はとっても新鮮で、おいしいね。」  

「個性的」・・・昨日、美容院に行って髪形を変えてきた女性教師に対して。             「先生、その髪型、とっても個性的でいいですね。」

      「配慮」・・・以前、字幕のないアニメ映画を見た。全くわからなかった。             「字幕がないのは、聴覚障害者への配慮が足りないよね」


また、このような新しい語を学ぶときは、それに類することば(類義語)や反対語なども同時に調べることが、その語の意味や使い方などを知り、記憶しやすくすることに繋がります。(例)「新鮮」⇒類義語「フレッシュ」「とれたて」 

   「新」を使った語「新幹線」「新入生」などから意味を考える。

   「鮮」を使った語「鮮やか」などから、意味を考える。

   対義語「新」 ⇔「旧」「古」「故」を使った語を調べる。

難解語句の指導法.jpg       

そして、このようにして調べた語は、「ことばノート」を作って書いておくことです。

1ページに1語使うかもしれませんが、関連する情報を書き加えておくことが結果的に知識を増やし、新しい語を記憶しやすくことは確かです。手話がある語であれば手話の絵なども書いておくとよいと思います。

 

教科書が読めるためには、いろいろな力が必要とされます。語彙力は最も基本となることです。正しい語の意味・概念を知っており、その語が状況や文脈に応じて違和感なく使えることが必要です。そのためには、その語はどのような使い方をするのか、例文をいくつか生徒に作らせることがよいと思います。 

呼応(陳述)の副詞というのがあります。

ある副詞と呼応して、そのあとにくる動詞が話し手の態度や気持を表す決まった表現です。

例えば、「決して」とくるとあとの動詞は「~ない」となります。

 

  ヤマタノオロチ.jpg小2国語「ヤマタノオロチ」(学校図書)では、一つの段落の中に、続けて3つ出てきます。以下の下線の部分です。(  )は本文で省略されている所を補って入れてみた語です。

 

①「もし、みごと退治できたら、 ②(ぜひ)娘さんを 嫁にしたい

 

③「(もし)、助かるなら、 ④(きっと)娘も 喜んで あなたの嫁になることでしょう

          

①の用法は「仮定」、②は「願望」、③は「仮定」、④は「推量」の用法です。(*分類の仕方は研究者によって違います)

 

このような決まった言い方は、覚えておくと便利です。きこえる子は自然に耳から覚えていきますが、きこえない子は知らないことが多いので、出てきた機会に他の用法も含めて取り上げて整理しておくとよいと思います。例えば、以下のような言い方です。このような言い方を取り上げて、子どもと例文を作るとよいと思います。

 

1.「もしかすると、~かもしれない」(仮定)

(例)「もしかすると、遠足は 中止になるかもしれない。」

 

2.「まるで~みたい・よう」(仮定)

 (例)「宝くじがあたったなんて、まるでみたいだ」

 

3.「どうか、~て下さい」(願望)

 (例)「どうか、私の話を きいてください。」 呼応の副詞.jpg

 

4.「たぶん~だろう」(推量)

 (例)「たぶん、ほんとうだろう

 

5.「決して~ない」(否定)

 ()「この本は決して安くはないですが、中身は面白いです。」

 

*右の表は年長児の保護者が作った「呼応の副詞一覧表」。

  小学校6年生くらいになると、教科書に書かれている文が長くなり、文の構造も複雑になってきます。また、抽象語彙がいくつも出てきます。右の単元は、 イースター島にはなぜ森林がないのか.jpg東京書籍の6年生の国語「イースター島には、なぜ森林がないのか」に出てくる説明文ですが、文の読みの力だけでなく、社会科的な知識や理科的な知識もないと、内容を深く理解することができません。 以下、一部を引用してみます。(漢字使用、丸数字は筆者)

 

「①今から約千六百年前、ポリネシア人たちが、それまでだれも上陸したことのなかったイースター島に上陸した。②その時、島はヤシ類の森林におおわれていた。③いずれの大陸からも遠く離れたこの島には、哺乳動物は生息せず、空を自由に飛ぶことのできる鳥類が多くすみ着いていた。・・・」

 

〇幅広い常識や知識の必要性

1600年前?、ポリネシア人?、イースター島?、ヤシ類?、大陸?、哺乳動物?・・・歴 難解語句の指導2.jpg史、地理の知識がないと、いくら文章をテキストベースで正しく理解できても、その奥にある本当の意味はわかりません。読解には文法的な力だけでなく、常識的な知識や人間の心理など幅広い知識(スキーマ)が必要で、さまざまな情報や知識、他者との関わりを小さい時から広く経験し蓄えていく必要があります。そして、そこで大事なことは、日常的に、きこえない子に情報がどう届いているのかということで 難解語句の指導.jpgす。きこえない子は、音声だけではいくらも情報は入りません(あえてその子に話しかけないと)。きこえる子は、周りの会話やテレビの音声などからもそれなりに何かを「聞きかじ」って知らぬ間に覚えているといったことが沢山ありますが、きこえない子にはこれができません。会話も音声だけでは集団の中では限界があります。「話せているから手話は要らない」などという医師や親御さんもいますが、どれだけ多くの情報がその子の耳に届かず、知り得たはずの知識がぼろぼろとこぼれ落ちているかを想像できないのでしょう。

 

〇テキストベースで読める力~文法力

 二つ目の問題は、教科書の文を文法的に正しく読めることです。といっても、きこえない子どもの中には、語彙力が十分でなかったり、複雑な文の主述関係や係り受けの関係がわからない子たちもいます。それでも教科書を学習しなければならないとき、内容理解のためのなんらかの手立てを考える必要があります。

まず、立ちはだかるのは「難解語句」。初見で教科書の単元の文を読んだとき、子どもにわからなかった言葉です。この難解語句を取り出して「ことばノート」を子どもと一緒に作るという方法がありますが、右上の例は、そうした方法の一つです。

 

 また、複雑な文章を品詞分類して、文の構造を視覚化する方法もあります。文が長くなる 難解語句の指導3.jpgのサムネール画像のサムネール画像と、どこがどこに繋がっているのかさっぱりわからないということがあります。そこで、子どもと一緒に品詞分類をしながら、文の視覚的構造化をすることで、主語―述語の関係(文型)や名詞修飾関係がわかりやすくすることができます。とくに、複文を構成する長い名詞修飾句・節は、文意が読みとれないと、どこがどこに繋がっているのかよくわかりません。日本語には英語の関係代名詞のような文法マーカーがないからです。右の図は、上に上げた教科書の一文を品詞分類したものです。このように視覚化することで文の基本構造がわかります。基本文型だけを示すと、以下のようになります。この基本文型という骨格に、説明のための長い修飾語句がくっついて複雑になっているわけです。

 

①「ポリネシア人たちが イースター島に 上陸した。」(基本文型3)

②「島は、(ヤシ類の)森林に おおわれていた。」(基本文型3)

③「哺乳動物は 生息せず」(基本文型1)「鳥類が すみついていた」(基本文型1)

 

 基本文型がわかると、言いたいことがどういうことかという、文の概要もわかります。

 

 以上のような手立てをとることで、教科書は格段にわかりやすくなります。品詞カードを使った日本語文法指導のよさが理解できるのではないでしょうか?

因みに、基本文型の学習については「きこえない子のための日本語チャレンジ」(本会発行)に載っていますのでぜひ参考にしてください。

(*この記事で引用している写真の教材は、江副文法を活用した指導を行っている香川聾学校の教材。児童は授業が「わかる」ので、楽しんで授業を受けていたのが印象的だった)

 

 小1のどの国語の教科書にも出てくる単元に「大きなかぶ」というのがあります。有名なロシア民話で、園や学校でよく劇化したりしますからほとんどの方はご存じと思います。右頁は、おじいさんとおばあさんと孫の3人で、かぶを引っぱっている場面です。では、この単元の読みにどう文法は関わっているのでしょうか?

 

変化を表す「~た」(完了・過去形)

 この単元は、登場人物が増えていくごとに8つの段落に別れるのですが、その第3段落が右頁、第4段落が右頁終わりから左頁にかけてです。スペースの関係で単元の全文を書けないのですが、読んでいて気づくことは、各段落の最初の文が必ず「~をよんできました」という、いわゆる「過去形」になっていて、そのあとの文は「ひっぱって」という動詞「~て形」がいくつか繋がった、いわゆる「現在形」の文になっていることです。これは文法的にはどういう意味を持つのでしょうか? 大きなかぶ.jpg

 各段落最初の文()の「~た」という動詞は、過去を表しているのではありません。動作や状態の変化や完了を表わすときに使う「~た」です。ですから、第4段落で言えば、「おばあさんは、まごを よんできました」という文によって、おじいさんとおばあさんだけではかぶを抜くことができなかった前の場面から変わって、新たな場面になったのだということ強く印象づける文になっています。私たちは理屈ではなく文法を自然習得しているので、無意識のうちにこうしたことを理解し頭の中で映像化していますが、文法的に説明するなら「過去形」はこのような場面転換に使われることがあります。(このような使われ方は、2年上国語「ふきのとう」にもみられます)。

 

 躍動感が出る「~て」(継続・進行形)

 その次の文はどうでしょう?第4段落②では「かぶをおじいさんがひっぱって、おじいさんをおばあさんがひっぱって、おばあさんをまごがひっぱって、「うんとこしょ、どっこいしょ。」となっています。

 「~て、~て」という「動詞+接続助詞て」を使って文をどんどんつなぐことによって、一連の動きが、一つのつながりになっていることを示す文になっています。

もし、この文が「かぶを おじいさんが ひっぱりました。おじいさんを おばあさんが ひっぱりました。おばあさんを まごがひっぱりました。」となっていたら、動作が一つ一つそこで終わって切れてしまい、一つ一つの行動をやり終えていく感じになり、全体としてつながってまとまって動いているという全体での躍動感が失われてしまいます。ですから、ここは「~て~て」とつなげて一気に読むところなのです。このように、動詞の「~て」形は、動作・行動の連続や継続の意味を表します。ですから、私たちの頭の中には、三人がひとつながりになって一緒にかぶを引っ張っている、それをまさに今そこに見ているといういきいきとした映像が浮かぶわけです。

 

余韻を残す「~ません」(現在形)

そして、文の最後の「うんとこしょ、どっこいしょ。」 これも意図的に省略がされています。例えば、「『うんとこしょ、どっこいしょ』と言いました。」とでも言いたいところですが、それでは客観的描写すぎて間が抜けた文になってしまいます。「うんとこしょ、どっこいしょ」で切って、間をおいて「やっぱり、かぶは 抜けません」と、「~ません」という現在形につなげることで、抜けないという状態が変化なく持続しているということを表現しているわけです。ですから、最後のところは少しゆっくり読んで、こんなにがんばったのに「やっぱり抜けなかった」という登場人物の心情に寄り添い、余韻を楽しむ部分です。また「やはり」ではなく「やっぱり」という語を使っているのも、その状態を強調しており、一つ一つの文が工夫の施された訳文になっています。

このように、文法は、作品を深く味わうために欠かせないものなのですが、日本語のさらに基本的な文法や語彙が未習得なきこえない子どもたちに、ここまで作品を深く読み取らせることは極めて困難なことです。「準ずる教育」だからといって徒に作品の鑑賞を言う前に、知っておかなければならない基本的な文法事項があるのです。それは、この単元でいえば、助詞「が」と「を」の用法といった、きこえる子であれば当たり前に知っている文法が理解できていないということです。それについて考えてみます。

 

基礎的・基本的な文法の指導が必要

この単元では、「かぶを おじいさんが ひっぱって、おじいさんを おばあさんが ひっぱって、・・・」の助詞「が」と「を」の使い方を学ぶことです。もし、この文で、「が」と「を」が逆になったら、全く意味がおかしな文になってしまいます。 大きなかぶ2.jpg「かぶが おじいさんを ひっぱって、おじいさんが おばあさんを ひっぱって、・・」。ところが多くの子が、おそらく半分くらいあるいはそれ以上の子たちは、「が」と「を」が逆になっていたとしても気づきません。助詞の意味・用法がわからないからです。わからなくてもそのまま「わかったかのように」進んでしまうのは、教師自身が、「子どもが助詞『が』『を』を理解していない」ことを知らないからです。子どもは挿絵を手掛かりに場面を理解できますし、作品を劇化したりして楽しむこともできるので、ここで助詞の指導をすることはまずありません。

しかし、たとえここで助詞の指導をしなかったとしても、子どもたちが助詞の使い方を理解していないことに対しては、どこかで助詞を指導することが必要です。意図的にとりあげて指導をしないかぎり、決して、子どもは助詞を「自然に」わかるようにはなりません。そして、助詞がわからないかぎり、どのような文も正しく読んだり書いたりはできません。「おじいさんを おばあさんが ひっぱって」なのか、「おじいさんが おばあさんを ひっぱって」なのか、その違いは、天地の差ほどあるのです。それをどのように指導するのか、それが日本語文法指導です。 (⇒本HP「日本語チャレンジ」「助詞の指導」「助詞テスト」等参照)

 

┃難聴児支援教材研究会
 代表 木島照夫

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